ホットレモネード

 ……ん?
 ああ、いけない。
 いつの間にか眠っていたらしい。もうこんな時間か……。
 よ……っと。年を取ると椅子から立つのも億劫になったなぁ。よっこらせ、と。
 寒さが一段と身に染む季節になったなぁ……。


 あれ? お客様ですか? すみませんね、もう仕舞いなんですよ。それにあなたのような若い娘さんがお探しのものは、ウチにはないと思いますけどね。ええ? またまたァ。お世辞はいけませんよ。
 あ、ほら、聞こえます?
 あのアンティークの柱時計が八時を打ったら、仕舞いにすることに決めてるんですよ。日がな一日開けてたって、数えるほどしかお客様も見えないんですけどね、まぁ、なんて言うんですかね、昔からの習い性みたいなもので、開けてないと落ち着かないっていうか、生きてる気がしないっていうかねぇ。あ、解ります? 嬉しいですねぇ。
 そんなわけだから、また日を改めていただけませんかね?
 え?
 ……今、なんと――?
 ははぁ、そうでしたか。
 そういうことでしたら、どうぞお入りになってくださいな。どうぞどうぞ。
 『思い出』関係のお客様は、特別なんですよ。
 よっぽどのことなんでしょう? こんな時間にお運びいただくなんてね。それにね――『思い出』関係のお客様なら、どんなときでも愛想よく。それが親父の……というよりも、代々の言い伝えなんで。ここであなたを無下に追っ払ったとなっちゃ、ご先祖様が化けて出るかもしれませんからね。
 ささ、どうぞ。
 狭いですが、ご遠慮なさらずに、ずーっと奥まで入ってください。
 さっと仕舞って、すぐに参りますから。


 コーヒーでもどうです? インスタントなんですけど。
 はぁ、そうですか。じゃあ、何か暖かいものでも。ミルクでも温めましょうか? はぁ……、それなら、レモネードなんていかがです? ウチのが原液って言うんですかね? 濃くてあまーいのを持たせてくれるんですけどね、熱いお湯で割って飲むと、芯から暖まりますよ。今の季節にはもってこいで。そうですか。ちょっとお待ちくださいね……。


 ――ささ、どうぞ。冷めないうちに。
 ……気になりますか? ええ、これが『思い出箱』なんですよ。もちろんこれは、中身のない見本ですけどね。え? そうですか、それは珍しい。
 いえねぇ、これを見て『大きい』と言う方はほとんどいらっしゃらないものだから。大抵の人はこんなちっぽけな木の箱に思い出が収まるのか、なんて。
 大事な思い出をきちんと収めて、そっと仕舞っておきたいと思う方ほど、これじゃあ小さいと思うみたいですよ。わたしなんか、大きさなんて大した問題じゃあないと思うんですけどね。
 それにこれくらいの大きさだと、両手でそうっと運ぶことも出来るし、書棚の奥の隠し棚なんかにも収まりますよ。ちょっと厚みがありますから、文庫本のように立てておいておくのには、あまり向かないかもしれないですけどねぇ。
 ……ああ、すみません、つい。
 それで、どのように仕立てましょう?
 はい、普通はですね、絹か木綿でたいせつにくるんで、しっかりした木の箱に入れてですね――ええ、お着物みたいに、桐の箱をご所望になられる方もおいでですよ。箱ですか? 欅とか杉ですかね。変わったところだと赤松なんてのもありますが。思い出をお包みする布と『思い出箱』を仕立てる木の種類で、お値段は変わってきます。こちらに代表的なものが一覧にしてありますが……。
 ?
 お気に召しませんか?
 あの、お客様……?


 は?
 ええ。中には思い出したくない『思い出』もございましょうからね。たまに、いらっしゃいます、はい。
 昔の恋人との美しい思い出を、色褪せないうちに仕舞っておきたい、そうおっしゃった方もいらっしゃいましたよ。それから――私にはどうにも解りませんが、いい思い出なのにお手元にはお持ちになりたくないとかで、お預かりしている思い出もいくつかございますよ。お客様もそういった御用向きでしたか?


 はぁ?
 今、なんと――?
 大変申し訳ないのですが、こちらでは『思い出』をお譲りしてはいないんですけれども……。
 これまでもそのようなお客様はお見えになりませんでしたから。ええ、他人様の思い出なんて、あなたがお持ちになっても、ちっとも嬉しかないでしょう?
 はい? わたしですか?
 そりゃ、まぁ、人並みには。こんな生業ではありますけれども、これが普通のことだと思ってきましたからね。ええ? ええ。平凡で何の取り柄もない妻ですが――はは、そうですか、そう伝えておきます――もおりますし、生意気な娘と気の小さい息子がおります。
 両親ですか? ええ、親父は頑固でしたし、お袋は口煩いだけでしたけれども、ともに亡くした今となっては、いい両親だったと思いますよ。
 そういうあなたはどうなんです?
 はぁ……そうでしたか。
 そりゃあ――。


 でも、こんなことわたしに言われたくもないでしょうけれど、今はお幸せなんでしょう? ご予定はいつ頃なんです? そりゃ、春が待ち遠しいですなぁ。今がお幸せなら、たとえご両親の思い出がなくったって、立派に育てていけるんじゃないですかね? ご主人はおやさしい方なんでしょう? そうでしょう。そのように見えますよ。
 そんなにこだわらなくてもいいんじゃないですかね?
 ははは……それはそうですが……。
 冷えますし、遅くなりすぎないうちにお帰りになった方がよろしいんじゃ? ――なかなか頑固ですなぁ。
 ――解りました。ちょっと、あとちょっとお待ちください。


 どうぞ。
 ええ、あなたがお求めの『家族の幸せな思い出』を探して来ましたよ。ええ、この二つだけです。
 お預かりしている思い出の数も、それほど多くはないですからね。
 蓋を開けて御覧なさい。そう、これが『思い出』です。石ころみたいでしょう? 暖かな色味を帯びているのは、この思い出が幸せな思い出だからです。ここから覗いて見てください。ええ、ここ。はい? そんなこと気にかける必要はありませんよ。こうして……拭いておけば、ほら、元通りでしょう? いくら覗いて見たからって、思い出が目減りするわけじゃありませんから。 わたしは少し奥にいますから。
 レモネードのお代わりをどうぞ。
 それから、……よかったらこのひざ掛け、使ってください。
 お腹のお子さんには、この寒さは障るでしょうから……。

*   *   *

 はい。
 ああ、お前か。
 いや、仕舞い掛けに『思い出』関係のお客様が見えてね――、ああ、いや、大丈夫だ。
 ……そうだなぁ……もうしばらく、かかるかもしれないな。
 厄介だって? そうじゃないよ。ただちょっと訳ありみたいでね。
 解ってるって。ああ、先に休んでくれて構わないよ。
 それじゃあな。

*   *   *

 ――いかがでしたか?
 はは、そりゃあそうでしょう、貴女の思い出ではないんだから。
 ……まぁ、どうしても、とおっしゃるなら、お譲りしないこともないですけどねぇ。
 でもその前に、昔話を聞きませんか?
 ええ、私の。
 お寒くありませんか? ストーブ、つけましょうか?
 ――さて、と。これでよし。
 これがまた年代ものでね、暖まるまでもうちょっとかかりますけれど。
 それじゃ、ちょっとお話しましょうかね。


 私と女房は見合いで知り合いました。知人の紹介でね。私は昔から、人間よりもモノに接している方が安心できるっていう、なんて言うんですかね、ちょっと、対人恐怖症みたいなところがありまして。いえ、特にこれといった原因には思い当たりませんなぁ。強いて言うなら、爺さんも親父も、この狭い店の中で、一日骨董を磨いたり眺めたりして暮らしていましたから、その影響もあったかもしれませんけどね。それでまともに恋愛もしないまま、いい年になってしまったという訳で。
 見合いをしてみたら、相手はどこをとっても平凡な女でね。なんでこんな平凡な女――と、正直思ったものです。自分のことは棚に上げて……ですけれどね。はは。
 見合いの席で女房はこんなことを言っておりました。モノをたいせつに扱うお仕事をなさるって、さぞかし楽しいものでしょうね、って。聞いたところでは、女房もどうやらあまり人付き合いが得手ではなかったとかで。それじゃあ何で見合いなんて、ってお思いでしょう? どこにでもいるでしょう、お節介焼きのおばさんて言うのが。女房に、あまりにも男っ気がないもんだから見合いの話がきて、とりあえず会うだけ会って、それからのことは相手次第ってことで、受けたみたいなんです。
 二度目に会ったのは、この骨董屋の店先でした。女房は骨董に興味があったみたいで。私のことなんか二の次ですよ。ほっとく訳にはいかないんで、私も狭い店ですけど、いろいろ見せたり説明したりなんかして、小一時間ほど過ごした頃でしょうかね。
 女房が、私を真っ直ぐに見て、言ったんですよ。
 貴方は、とてもおやさしくて、純粋な方ですね。って。
 そんなこと言われたのは初めてでしたからね。舞い上がりましたよ。何かこう、彼女の後ろからさあっと光が差したみたいに、急にきれいに見えましてね。そのときにはもう、結婚することに決めてましたね。
 それからは、とんとん拍子で話がまとまりましてね。見合いをして半年後には式を挙げました。派手すぎない、小ぢんまりした式でした。――そうですか? いやぁ、そう言われると照れますな。
 結婚してこの家で一緒に住むようになって、私は平凡な幸せを手に入れました。女房は本当によく働く女で、店の中がすっかり小奇麗になりました。それに勉強熱心で、骨董のことや手入れの仕方を、親父やお袋に習いまして。私はこうして店先で座っているだけでよくなりました。だけど女房は決して『思い出』に関わる仕事には手を出そうとしませんでした。それは貴方のお仕事でしょう、ってね。
 いつだったかなぁ――、女房がしみじみと、わたしは人様の思い出に触れられるほど、純真な人間ではないから、みたいなことを言っていたことがありましたっけねぇ。
 ……いやいや、話が逸れてしまった。
 しばらく経って、子供を授かりました。ええ、さっきちょっとお話した、生意気な娘です。生まれたときは小さくて、それでも元気な声で泣く赤ん坊でした。初めての子供って言うのは、なんていうか、くすぐったいものですね。特に私は生まれるのに立ち会ったわけでもない、ただ産院の待合室でおろおろしていただけでしたからね、『元気な女の子ですよ』って声をかけられても、いまいちぴんと来なくて。急に目の前に現れたようなもんでしたよ。ええ? そりゃあ、そうです、日に日に大きくなる女房のお腹を見ていたんですからね。でも、女性と違って『産んだ』っていう実感がないんですから、どうしようもないことだと思いませんか?
 それが、どんどん可愛く思えてくるんだから、不思議なものです。私も娘と一緒に成長したようなものですよ、父親にね。女房も本当によくやってくれたし、お袋もつかず離れずで娘と女房を見てくれたんですよ。女房も頼みにしていたようです。
 娘が生まれて二年後に、また子供を授かりましてね。まだ目立ちもしないお腹に手を当てては『元気に生まれて来いよ』なんて声をかけてみたり、娘には『お前はお姉ちゃんになるんだからな。赤ちゃんには優しくしろよ』なんて言ってみたりね。女房もにこにこしていましたよ。春の陽射しのような、暖かいほっこりとした笑顔でした。娘は気が早くて『ゼッタイ妹がいい!』なんて言っていましたっけ。何も言うことはないほど幸せだった。
 あの頃の私は、その幸せは、いつまでもずうっと続くと思っていましたよ。ええ、本当にね。
 だけど六か月に入って少しした頃に、急に女房が身体の不調を訴えましてね。私はたまたま手を離せない仕事にかかっていたので、お袋に付き添ってもらって病院に行かせました。病院から知らせを受けて、私は何が起こったのか理解できなかった。
 赤ん坊がね、流れてしまったって言うんですよ。
 お袋は電話口で驚くほど冷静でした。だけど私は混乱してしまった。私に解ったのはただ、赤ん坊が駄目だった、ってことだけでした。私はすぐにでも病院に駆けつけたかったんですが、仕事がどうにも片付かなくてね。え? ええ、あの時も『思い出』関係の仕事でした。最後の仕上げにかかっていたんです。やっと仕事を終わらせて駆けつけた時には、お袋は死人みたいな真っ白な顔をして、病室のパイプ椅子に座っていました。病室は空っぽでした。
 女房は流産の後の処置をするために、処置室にいる、っていう話でした。
 詳しいことは覚えていません。確か先生が丁寧に説明してくださったような気がしますけれど……。先生の俯き加減の、なんとも言えない暗い表情と、精気の抜けたどんよりとした目は、忘れられませんけれどね――。
 幸い女房には、何の危険もありませんでした。
 処置を終えて病室に戻った女房は、蝋人形のようでした。ベッドに横たわって、何も言わずにじっと天井を見ていた女房の目尻から、すう、すうっと涙が筋を描いて流れ落ちるんです。女房はそれを拭う気力もないようでした。私はただおろおろして、お袋が女房の涙をしきりに拭いてくれていました。それは本当の母娘のようで――それがかえって女房には辛かったのかもしれません。
 女房は三日ほど入院して、戻りました。
 女房が退院してからというもの、私も女房もすっかり気落ちしてしまってね。――今までどうして、あんなに幸せだと思って生きていられたんだろう、そんな気持ちでしたよ。特に女房は――自分を責めましてね。自分がもっと気をつけていれば助かったんじゃないか、知らないうちに無理がかかっていたんじゃないか、と。あれほどよく笑っていた娘も、私と女房の暗く沈んだ様子に、すっかり笑わなくなっていました。
 親父もお袋も心配して、元気づけようとしてくれるのですが、それもあまり意味がありませんでした。女房も人が変わってしまって、あんなに小奇麗だった店も、あちこちがたついたような、乱れた様子になってしまいました。女房が来る前に戻った、ってだけのことなんでしょうが、それまでがきれいだった分、乱雑さが余計に目に付く――そういった感じでした。
 娘にも、本当に可哀想なことをしました。
 あれも一種の赤ちゃん返りだったんでしょうね、取れかかっていたおむつも元に戻ってしまったし、いつまでもぐずって……夜も泣くようになってね。時々、悲鳴に似た大声を上げたりして。親父とお袋ではもうどうにも出来なくて、家中が酷い有様でした。
 そんな日が、半年あまりも続いた頃でした。
 急に女房が『あの子の思い出を思い出箱に仕舞って、どこかに隠して欲しい』と言ったのは。
 女房は、もういい加減に悲しかったことは忘れて――要するに、『思い出箱』に仕舞い込んで――、今までのような生活を取り戻したい、そう考えたそうです。私も、迷わず頷いていました。思い出を仕舞ってしまえば、何もかもまた新しく始められるような気がして――。それで、親父に頼んだんです。
 親父は何も言わずに、三度ほど頷きました。
 それから親父は、私と女房を目の前に座らせて、あれこれ話を聞き始めました。
 二人目の赤ん坊を授かった頃のこと。家族中が喜んで、赤ん坊の生まれる日を楽しみに待っていたこと。幼い娘がお姉さんぶって見せた、おしゃまな笑顔のこと。女房が悪阻で苦しんで、それでも気丈にしていた日々のこと。私が女房のお腹を撫でて、あれこれ声をかけたこと。それから、ある日突然私たちを襲った、あの出来事のこと――。ほんの些細なことも、ひとつ残らず話しました。
 ええ、ひとつ残らずです。
 女房は話しながら辛い気持ちが蘇るのか、しきりに涙を拭いました。私も涙声で――。親父は黙って頷きながら、私と女房の話に聞き入っていました。そのときです、じっと黙って聞いていたお袋が、ぽつりと呟いたんです。

 流産で赤ん坊を亡くしてしまったことは確かに辛かった。あんたたちだけじゃなくて、わたしも、お父さんも、みっちゃんも。でも、あの子と一緒にこんなにたくさん、楽しいことや嬉しいことがあったんだね。

 私は、はっとしました。
 あの子を失ってからの一年余りを、私と女房は悲しみのうちに過ごした。何か楽しいことがあっても、楽しんではいけないような気さえして、心を押し殺して生きていたようなもんでした。あの悲しみを埋められるものは何もないとさえ、思っていた。でも、違うんです。
 あの子は、女房のお腹の中にいたたった数ヶ月でも、私たち家族に楽しい思い出や嬉しい思い出を、たくさんくれていたんです。私はそれに気がつかずに――気がつかないふりをしていたのかもしれないけれど――ただ悲しみだけを見ていたんです。女房もそのことを、改めて感じたようでした。
 私は何も言わずに、黙って女房を見つめました。女房も私の顔を見ていました。涙を拭いていった言葉は、こういうものでした。
 あの子にして上げられなかった分、娘と、これから生まれてくるかもしれない子供のために、幸せになりましょう、って。
 女房のその言葉を待っていたように、親父がゆっくりと言いました。


 思い出箱っていうのは、お前たちが思っているような便利な箱じゃあ、ないんだよ。辛かったことや苦しかったことは、それを乗り越えて生きていけるように――もう一度見つめなおすために、箱に仕舞うんだ。決して『なかったこと』にするために、仕舞う箱ではないんだよ。
 これからお前は、いろんな人のたくさんの『思い出』に触れていくことになるだろう。でも、これだけは忘れちゃいけない。
 どんな思い出でも、捨てちゃあだめだ。それがどんなに、苦しくても。


 ――それからは、私たちは少しずつ、元の私たちに戻っていきましたよ。娘も、やっと笑顔を取り戻して、ころころとよく笑うようになりました。それまでの私は、父親として以前に、人間としてどうかしていた。自分の不幸ばかり嘆いて、目の前にあるはずの小さな幸せさえも、すべて失ってしまうところでした。
 店も小奇麗な店に戻って、生まれてこられなかったあの子のくれた思い出を、女房と二人で笑いながら話せるようになった頃――三人目の子供を授かりまして。それが、息子です。
 娘にも息子にも、流産した子のことは話しました。生まれてくることは出来なかったけれど、お前たちにはもう一人、兄弟がいたんだよ、って。娘は何となく覚えている、と言いましたなぁ。お父さんもお母さんも、黙ってじっと座ってるだけで、あたしのことなんて気にもしてくれなかったよね、って、責めるような口調で言われたときには、苦笑するしかありませんでしたけどね。娘も今になってやっと、あの頃の私たちの気持ちを何となくでも理解できるようになったみたいで、いつだったか、思い出したようにぽつりと、女房に『タイヘンだったね』なんて言ってましたが。
 ……昔話は、これでお仕舞いです。


 え? そりゃあ、もう。
 でもあのことがなければ、今の幸せはなかったと、私は思っていますから。
 確かにね、悲しいこと、辛いこと、苦しいこと……生きているうちには、大変なことはたくさんありますよ。でもね、それと背中合わせになってるみたいに、楽しいこと、嬉しいことってあるような気がするんですけどね。
 ええ、もちろん。
 あの時の私みたいに、思い出から逃げたいがために、思い出箱に――そうおっしゃる方も見えますよ。ただ、思い出箱を仕立てるには、いろいろと詳しいお話を伺わなくてはならないこともありますから。そうやって話しているうちに気が変わる方が大半です。
 ……それで、どうでしょう? 貴女はまだ、お気が変わられませんか?
 !
 そうですか!
 それじゃあ、こうしましょう。
 貴女のその思い出を『思い出箱』に。
 ええ、ええ。
 貴女もいつか、お腹のお子さんに話して聞かせたいと思うこともあるでしょう、そういうときにも、この『思い出箱』は重宝しますよ。
 ……今夜はもう遅くなりましたから、そのお話は後日改めてということで。
 え?
 そうでしたか。羨ましいことです。
 だってそうでしょう。
 貴女には三人のお母様と、たくさんのご兄弟がいらっしゃるってことですから。お母様方が、貴女のお幸せを喜んでいるのも、当然です。親っていうのは、そういうものですよ。
 ええ、ええ。
 そうして差し上げたら、どんなにお喜びになることか。
 ささ、お気をつけて。足元、大丈夫ですか?
 路が凍っているかもしれませんからね、くれぐれも転ばないようにね。
 はい? そうですか。ちょっと待ってくださいね……。
 ……はい、どうぞ。女房も喜びます。娘なんか「こんなに甘いの、がぶがぶ飲んだらデブになる!」とか言って、口を付けようともしないんですから。全く本当に、生意気でどうしようもない。今夜はこれでしっかり暖まって、ぐっすり眠ってくださいね。
 ええ、いつでもお時間のいい時に。
 はい。お待ちしています。
 ありがとうございました。

*   *   *

 ふう。
 疲れた――。それにしても……喉が渇いたなぁ。
 ――ああ、美味い。


 ん?
 ああ、びっくりした。お前か。何? はは、道理で冷えるはずだ。それでわざわざ? すまなかったね。
 今夜はもう仕舞いだよ。ああ、本当にね。
 うう、寒いなぁ。積もるかな? いや、嬉しいわけじゃないけど、子供たちが小さい頃を思い出すじゃないか。
 ああ、そうそう。
 さっきお帰りになったお客様な、お前のホットレモネードをとても気に入ってくださったようだよ。随分減ってしまったから、また頼むよ。
 さて、と。帰ろうか。
 どうだい? 久しぶりに相合傘でもしてみないかい――?


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