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 俺は寝不足で赤くなった目を擦って、油断すると漏れそうになる欠伸を噛み殺した。こんなことで依頼主の機嫌を損ねてしまっては、依頼料に響くかもしれない、そう考えたからだった。
「……ここには嘘はひとつも混じっていないんですね?」
 今日七度目の質問を、依頼主はまた口にした。そんなに俺を信用できないなら、自分で調べろよ――俺は内心でそう悪態をつきつつ、それでも満面に笑顔の仮面を隙間なくぴったりと貼り付け、言った。
「ええ。お約束した二週間の調査期間では、ご主人は奥様が心配なさるようなことは一切されていらっしゃいませんよ。ただ、この不況の煽りで社内での営業成績が不振で、一件でも多くの契約を取るために躍起になっているのは確かです。接待で夜が遅くなってしまうのも仕方のないことでしょう」
 依頼主は丸々とした太い指で、真っ白なレースの縁取りのあるハンカチをぎゅっと握りしめた。何度も握りしめられて、ハンカチにはたくさんの皺が寄っている。
「……調査期間を延長していただけませんか?」
 おやおや。このご婦人は、まだご主人の浮気を疑っているらしい。俺が女だったら、営業でくたびれ果てた五十絡みの親父とは、間違っても不倫なんかしないけどな。ご主人の疲れて青ざめた顔を、このご婦人は見ているんだろうか? 仕事に疲れ果てて、人間的にも何の魅力もない、ただの親父にしか見えないはずなんだけどな。こんなふうに疑われ続けることで、かえって外の女に走る、ってことにならなきゃいいけど。
 俺はそんなことを考えながらも、やはり同じように笑顔の仮面をつけたままで言った。
「ですが、これ以上の調査は不要であると、当方では判断いたしますね。どこで依頼なさっても、結果は同じはずですよ」
「……そうですか」
 依頼主は低くそう呟くと、俺の集めた資料や写真を茶封筒に収めながら言った。
「もう結構ですわ。他に当たってみます」
 やれやれ。これじゃご主人もかわいそうなことだ。
「最初に言われた依頼料で、よろしいですね?」
 依頼主は立ち上がってから言った。
「ええ。調査期間の延長もありませんし、ほとんど経費もかかりませんでしたから」
 寝不足な日が続いたが、俺にとっては楽な部類に入る仕事だった。依頼主は僅かに頷くと、ブランドバッグから白い封筒を取り出した。
「では、これで」
 俺はそれを受け取って、中身を素早く確認した。十五万きっちり、新札だった。
「はい、確かに。領収書は?」
 いらないだろうと思いながらも、一応確認してみる。依頼主は結構です、と素っ気無く言うと、そのまま事務所を出て行った。
「どこから出てるンだ? このカネは」
 依頼主が太った身体を揺すりながら通りを歩き去るのを事務所の窓から眺めながら、俺はラークに火を点けた。ふう、っと白い煙を吐き出して、俺は大きく欠伸をした。
 俺は吉河章呉(よしかわしょうご)。しがない私立探偵だ。依頼される仕事のほとんどが身辺調査や素行調査。浮気調査もこの中に含まれるだろう。たまに迷子のペット探しや、家出人の捜索なんてのもあるが、そんなのは年に五件もあれば多い方だろう。依頼料は二週間の調査期間で十五万、というのを基本にしている。それに調査にかかる経費も依頼主に請求する場合がほとんどだ。そうなると結局月に二十五から三十万の収入になる。この事務所で寝起きしている俺にとっては、充分な収入だった。
「さて、と。ひとつ片付いたことだし、少し寝るか」
 俺は吸殻が積もった灰皿にラークを押し付けて、事務室の隣にある寝室のドアノブに手をかけた。そこでタイミング悪くインターフォンがなった。俺は軽く舌打ちをして、インターフォンに応えた。
「はい? どちら様?」
 インターフォン越しに聞こえてきたのは、控えめな女の声だった。
『あの……こちらは吉河探偵事務所、ですよね?』
「そうですが」
『調査をお願いしたいんですけれど』
「……そうですか。どうぞ、お入りください。鍵はかかっていませんから」
 俺は声に答えると、事務室の椅子に戻った。かちゃ、とノブを回す音が響いて、少女の小さな顔が中を覗き込んだ。
「どうぞ」
 俺は笑顔を浮かべて言った。こんなコドモが、いったい何を依頼に来たんだ? 俺は入ってきた少女を改めて見て、そう思った。
 少女は某私立高校の制服を着ていた。中・高・大学とエスカレーター式の名門校だ。いまどきの高校生らしくプリーツスカートはかなりミニだったが、紺のハイソックスに清楚な印象を受けた。化粧気はないが、眉は綺麗なアーチ型を描いていた。奥二重の切れ長の目、鼻は高くも低くもなく、口はやや大きめだが唇は薄い。髪は肩までのセミロング。陽の当たり具合で茶色っぽく見えるが、どうやら染めてはいないようだ。大人しそうな少女だな、そう俺は思った。
 俺が事務所に入るように声をかけると、少女は入り口で軽く頭を下げ、中に入ってきた。
「アポも取らずに突然お邪魔して、申し訳ないです」
 少女は俺が勧めたソファに浅く腰掛けて、真っ先にそう言った。俺は軽く首を振った。
「そんなことを気にすることはありませんよ。大体アポを取ってから来る方が少ないですから。……それで、今回はどのような?」
「わたしの姉の、身辺調査をお願いしたいんです」
 少女は真っ直ぐに俺を見つめて言った。俺は少女に断ってからラークをくわえて、少女に詳しい話を聞いた。
 少女は空木二葉(うつぎふたば)と名乗った。二葉は幼い頃に両親が離婚し、今は母親とその再婚相手である義父、母と義父との間に生まれた弟との四人で暮らしていると言う。
「それじゃ、お姉さんと言うのは?」
「ええ。実はわたしたち、双子なんです。物心つく前に両親が離婚して、わたしは母に引き取られましたが、姉は父に引き取られ、離れ離れに暮らしていました。お互いの存在を知ったのは――確か四年前、だったと思います。父はたまに母にお金をもらいに来ていました。あのときも父は家までやって来て、そこに姉も一緒に来ていたんです。何も言われなくても、お互いに一目で解りました。双子ですもの、当たり前ですよね? それからわたしたちは、こっそり二人で会うようになりました。一度会っていることがばれて、ひどく叱られたものですから、慎重に連絡を取り合って。わたしたちすぐに打ち解けて、何でも相談し合える親友になりました。わたしは姉と会えるのが嬉しかったし、姉もそうだと思ってました」
 そこで二葉は俯いた。思ってました、ということは、今はそうではない、ってことか。
「そうなんです。高校生になった頃から、少しずつ疎遠にはなっていたんですけれど、それでも何度か会ってはいました。でも姉はそれまでとは全く別人のようになってしまったんです。会ってもあまり口をきいてくれないし、約束をすっぽかされたのも一度や二度ではありません。連絡を取ろうとしても取り合ってくれず、高二になってからは会っていないんです」
「……それで、具体的には何を?」
 俺は他に言葉がなかったので、仕方なくそう尋ねた。思春期の少女にありがちな、ただの心変わりじゃないのか。そういう見方をすると、なんだか二葉は、恋人を横から掻っ攫われたみっともない失恋男みたいだった。――つまり俺は、二葉の姉には二葉よりも大事な人間、例えばボーイフレンドが出来たから、二葉と疎遠になったというだけのことではないかと考えていた。
「ええ。きっと姉に何かあったと思うんです。友人とか、彼とか、交友関係で何かあって、それで変わってしまったんじゃないか、って。時間もお金もいくらかかっても構いません。だから、姉の変心の原因を調べてください」
 二葉はソファにかけたままで、深く頭を下げた。
「調査費用のことは、もう解っているんですね?」
 俺は二葉に確かめた。少女相手に容赦がない、と思われるかもしれないが、俺だってボランティアをやっているわけじゃない。報酬がなければ、調査だってしない。当たり前の話だ。
「はい。今までにもらったお小遣いと、アルバイトで貯めたお金が百万ちょっとあります。それだけあれば、一ヶ月間は調査していただけますよね?」
 いまどきのコドモはカネを持っている。そんなことはちゃんと解っているつもりだったが、俺は驚いた。
「それは、二葉さんが自由に遣える金額なんですか?」
「はい。わたしの名義で貯金してありますから」
 二葉は静かに答えた。とりあえず俺には断る理由はなくなった。俺は二葉に姉について詳しく聞いた。
名前は坂井一葉(さかいかずは)。隣の市にある公立高校に通っている。外見上の特徴は二葉とほとんど同じ。ただ髪は、金髪に近い茶髪で、背中の真中辺りまでの長さだそうだ。化粧をしているので、多少印象は違うかもしれないが、多分一目で解るだろう、二葉はそう言った。
「わたしたち、一卵性ですから。以前友人に、姉と間違えられたくらい似てるんです。知らない人が見たら、わたしがお化粧して茶髪にした、って思っちゃうくらいですから」
 そして初めて、年齢に合った笑顔を見せた。
「それじゃ、よろしくお願いします」
 ドアの傍に立った二葉は、深々と頭を下げると事務所から出て行った。俺は時間をかけてゆっくりとラークを吸ってから、一葉の通う高校のある市へと向かった。


 一葉の通う高校と、一葉の家との間には、中高生がたむろして時間を潰せるような場所がたくさんあった。喫茶店、ファミレス、ゲーセン、ハンバーガーショップ、映画館、本屋、CDショップ、等々。俺は何気ない風を装って、ぶらぶらとファミレスやゲーセンのあたりをうろついていた。あまり高校に近づきすぎて、目立つと不振がられる。ファミレスやゲーセンには雑多な人がいるのが当たり前な分、人目につきにくい。
 一日目と二日目は、どうやら外れた。
 一葉らしき少女を見かけることが出来なかったからである。俺は二葉に教えられた一葉の家の辺りまで足を伸ばしてみたが、家に帰るのは深夜か、あるいは帰っていない様子だった。それで俺は家をあきらめ、高校とその周りをぶらつくことにした。もちろん、一葉の通う高校の制服を着た少女に声をかけてみることも忘れない。しかしそれもあまりしつこくやっていると調査していることがばれてしまう。その辺の危ういバランスを何とか保ちながら、俺は一葉がバイトをしているというファストフードの店に足を運んだ。
 あの子だ。
 店内の清掃をしている少女に、俺は瞳を止めた。
 背格好は確かに二葉と似ている。双子だから顔もそっくりだ。二葉の言うように少しきつめの化粧をして、茶髪だった。だが髪形は肩に届くか届かないか、というくらいのショートボブだった。最近切ったのかもしれない。
 一葉は全体的に、空虚な感じのする少女だった。テーブルを拭きながら、テーブルを見ていない。ゴミ袋を換えながら、ゴミ箱を見ていない。スタッフと二言、三言の言葉を交わすときさえも、相手をきちんと見ていない。
 全てが一葉の上を通り過ぎているような印象だった。
 俺はそこで不味いホットコーヒーと水気のないぼそぼそのポテトで時間を潰した。一葉がアルバイトを終えるのを待っていたのだ。一葉が着替えて出てきた。俺はタイミングを計って一葉を尾(つ)ける。
 そんな風に、調査期間の二週間が過ぎた。
 その中で俺が一葉に関して掴んだのは、およそこんなところだ。
 どこにでもいる普通の女子高生とそう変わりのないこと。
 友人もわりと多く、学校にも毎日通っている。アルバイト先の評判も中の上と言ったところ。
 ただ問題と言えるのは、一葉は、自分が通う高校のある教師と不倫の関係にある、ということか。しかし一葉にはその教師以外にもボーイフレンドが三、四人いるので、どうやらどの男とも本気で付き合っているわけではないらしかった。これ以上のことを調べるにはもう少し踏み込んだ調査が必要だが、今のところはこれで充分だろう。
 俺はこの結果を、包み隠さず二葉に報告した。二葉は不倫、という言葉と複数のボーイフレンドがいる、という事実に驚きを隠せない様子だったが、調査結果には大いに不満だったようだ。
「……本当にこれだけなんですか?」
 二葉は力のこもった瞳で俺を見据えた。俺は一瞬たじろいだが、それでもすぐに切り返した。
「たとえどんな事実であっても、それを全て報告するのが私のやり方です。二葉さんの依頼に基づいて一葉さんの身辺調査を行いましたが、二葉さんが思っているような『何か』は、一葉さんには起こっていませんよ」
「そんなはずありません!」
 二葉はだん、とテーブルに手をついた。俺はそれに驚いて、一瞬言葉に詰まった。
「絶対に、何かあるはずです。それを突き止めて下さるまで、調査は続けてください!」
 二葉が強い調子で言った。俺は二葉を恐ろしい、と思った。どうしてこんなに執着するんだ? 原因が解らぬままに疎遠になってしまったことに憤りを感じる気持ちも解らなくはないが、このこだわり方は異常だ。それでも依頼主が調査の続行を希望し、さらに俺が踏み込んだ調査が可能、と思っている限りは、この調査を途中で投げ出すわけにもいかない。結局俺は二葉に押し切られる形で調査の続行を決めた。
 とは言うものの、今までのやり方では調査が行き詰まっているのも事実だ。俺は考えに考えた挙句――一葉に直接接触することにした。
 アルバイトを終えて店を出たところで、俺は思い切って一葉に声をかけた。一葉は面倒そうに振り返って――それから俺を見て瞳を瞠った。驚いたのか、怯えたのか、とにかく一葉は、声も出さずにただ俺を見ていた。二葉とそっくり同じの切れ長の瞳を大きく見開いた一葉は、大人の女の表情をしていた。それで俺はピンときた。一葉は俺に気付いていて、しかも俺をよこしたのは「不倫相手の関係者」だと思っているのだろう。
「……誰の差し金?! あの人の奥さん?!」
 先に声をあげたのは一葉だった。やっぱりか。俺は内心で呟いて、適当に言葉を濁した。
「……まぁ、そんなところです。それよりも、ちょっとお話を伺いたいんですが」
 俺が言うと、一葉はふん、と鼻を鳴らした。
「ただの遊び。そう言っといて」
 そして足早に歩き去ろうとする。俺は一葉の腕を取った。
「――にするのよ!!」
 一葉が怒りの形相で俺を振り返る。俺は一瞬たじろいだ。すると一葉は――不思議なことに表情を和らげ、哀れむような顔を見せて――そして落ち着いた表情で俺を見た。
「……アンタ――」
 それっきり、しばらくじいっと俺を見ていた。そして何を思ったのか、俺の手を取ってこう言った。
「あそこの喫茶店でいい? もちろん驕りよね?」
 にっ、と笑みを浮かべた。それはまだ何も知らない幼い少女の笑みにも、世の辛酸を嘗め尽くした娼婦の笑みにも見えた。俺はそのとき、改めて一葉という少女を見つめて思った。
 この娘は、一体、何を抱えて生きているんだろう?
 とにかく一葉への接触に成功したことは確かだ。これで調査も終わったようなもんだ――俺はそんなことを考え、俺の腕を引く一葉の茶色い頭をぼんやり見ながら、喫茶店に向かっていた。


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