見出し画像

+++ 1 +++

 黒いシングルスーツが、一層男を華奢に見せた。
 真っ赤な蝶ネクタイが、男が動くたびに本物の蝶のように見えた。
 やはり華奢で長い指。右手の薬指と小指にごてごてとした銀の指環をしていたが、男の雰囲気とは不釣合いに見えた。男は悪戯を咎めたてられた少年のような表情で、こんな風に言った。
「本当は指環なんてしてちゃだめなんだ。そこに何か仕掛けてあるんじゃないか、って思われちゃうから」
 そして男は流れるような優美な動作で、両腕を振り上げた。腕の動きに合わせて空を仰ぐ。抜けるような真っ青な空。

 ふわっ――…………………………。


*   *   *


 ――今日もまた、一日が始まってしまった。
 ベッドの中で憂鬱な思いに沈みながら、沙良浬(さらり)はそっと瞼を開いた。遮光カーテンが締め切られた部屋の中では、朝の明るさを感じることはできない。それでも沙良浬には朝が来たことが分かっていた。ここ三年ほど、毎朝必ず五時四十八分に目が醒めるからだ。
 毎晩、明日は目が醒めませんように、と祈りながら眠る。それでもやっぱり目が醒める。そして憂鬱な気分で瞼を開くのだ。
 それがずっと、沙良浬の習慣になっていた。
 身体を起こすのも面倒で、とりあえずベッドの中で身体を右に向けたり左に向けたりしてみる。昨夜は時間をただ浪費するためだけにネットゲームをやって、ベッドに入ったのは三時をちょっと廻ったころだったから、頭に靄がかかったようにぼうっとしていた。それでも目は醒めてしまうのだから、沙良浬はやりきれなかった。
 でも、今日はこのまま二度寝できそうな気配だった。沙良浬はそっと瞼を下ろして、ベッドに仰向けになる。いつものように目が醒めませんように、と何度も心で繰り返しているうちに、沙良浬はずるずるとゆっくりと、眠りに引きずられていった……。



 ――あたし、なんでこんなところにいるんだろう?
 沙良浬は何時の間にか、教室の真中の後ろから二番目の席についていた。教壇には数学の先生――名前は忘れてしまった。沙良浬は彼が大嫌いだった。クラスメイトたちは、板書された数式をノートに書き写して、必死に問題を解いていた。たまに隣同士で解き方を確認するひそひそ声以外は、ペンの走る音と消し屑を払う音しか聞こえなかった。
 しばらく経って、沙良浬は指されて前に出た。同じように指名されたクラスメイトは早々に問題を解いて席に戻ったけれど、沙良浬はチョークを握り締めたまま、呆然と深緑の板の前に立ち尽くしていた。
 ――あたし、なんでこんなところにいるんだろう?
 そんなことを考えながら、目の前の問題をじっと見る。じっと見ていれば答えが浮かんでくるんじゃないか、そんなことを期待しているような目付きだった。
「そんな問題も解けないのか」
 教師は刺々しい声を沙良浬の背中に投げつけた。沙良浬はびく、と身体を震わせ、恐る恐る教師を見た。教師はやれやれというように首を振って、沙良浬に戻るように言った。クラスメイトたちが沙良浬に侮蔑の視線を投げる。沙良浬は俯いて、足早に席に戻った。
 教師は答え合わせを始める。沙良浬の他のクラスメイトは正解。そして教師は沙良浬が解けなかった問題を、やや投げやりな様子で説明しながら解いた。
 教師は教室中を見回して、最後に沙良浬を見た。明らかに沙良浬を蔑んだ目をしていた。沙良浬は教師の視線に耐え切れずに、ただじっと真っ白なノートを見つめていた。……



 そこでぱち、と沙良浬は目を開けた。
 身体が寝汗で気持ち悪かった。
「夢……」
 そのままの姿勢で沙良浬は口の中で呟いた。
 学校の夢なんて、もう何年も見ていなかったのに。そっと額に手を当てると、そこも汗で濡れていた。
 いやな夢を見たせいで、いやなことを思い出したという不快感はあったものの、目覚めたときの憂鬱からは開放されていた。そのことで沙良浬は、いやな夢にさえ感謝を覚えた。
 ゆっくりと身体を起こして、軽く頭を振った。おかしな時間に寝て起きて、二度寝したせいかひどく頭が痛んだ。それでもベッドから出て、とにかく何か冷たいものを飲みたい、と思う。目覚し時計は、十二時十三分を指していた。
 目が醒めてすぐにこんな風に何かをしたいと思ったのも、もう何年ぶりだろう。
 部屋を出て、キッチンでミネラルウォーターを流し込んだ。ペットボトルに直接口をつけてごくごくと飲んだ。
 ――あの人がこんなところを見たら、またきんきん声で怒るんだろうな。
 沙良浬の脳裏には、いつも眉間に皺を寄せた母親の、不機嫌な表情が浮かんだ。いつも不機嫌なわけでもないようだったが、何かというと眉間に皺を寄せる癖を持っているせいで、普段の表情がそうなってしまったらしかった。沙良浬はここ何年か笑う母親を見たことがない。
 渇きが癒えると、急に空腹を感じた。昨日も一昨日もろくな食事をしていなかったことを思い出して、適当に食パンとジャムと、ミルクで空腹を満たした。そして部屋に戻る。
 ――これからどうしようかな。
 なんとなくデスクセットの椅子を引いて、座りながら沙良浬は思う。
 無意味な時間が、ただ惰性で流れていく。
 沙良浬はそういう生活を繰り返していた。眠るのも食べるのも、ただなんとなくそうしているだけで。決まった時間に何かをしているわけではなかった。
 ただひとつ、午前五時四十八分に目を醒ます、ということを除いては。



 沙良浬はデスクセットの引出しから、ノートを手にとって開いた。
 数学のノート。数式や解法、答えがびっしりと細かい字で書き込まれている。その中には因数分解もあった。それから授業内容に沿って様々な数式や定理などが書き込まれ……突然空白になっている。それ以降は、何も書かれていない真っ白なページが続いていた。
 真っ白なノート。
 沙良浬はまだ僅かに瞼に残る、夢の残骸を突きつけられたような錯覚に陥った。軽く頭を振って、ぼんやりと思う。
 ――別に勉強ができなかったわけじゃないんだけど。
 沙良浬は、自分でもそう思っていたが、客観的に冷静に判断しても「できる生徒」だった。今朝の夢のようなことは、一度も現実に起こったことはない。どんな教科もそつなくこなし、ただ音楽の成績だけはあまり振るわなかったことを除けば、完璧だった。
 友人もわりといた。親友と呼べるだけの心を許せる友人には出会えなかったものの、周りもみなそうだったから特に気にしたことはない。
 何の問題もなく学校生活を送っていた。
 自分でもそう思っていたし、家族も友人もそう思っていたに違いない。充実感には欠けたけれど、楽しい学校生活だった。楽な、と言い換えた方がより実際には近いかもしれないが。
 しかしある日突然に、沙良浬は学校に行くのがいやになってしまったのだった。
 中学二年の、梅雨入り前の蒸し暑い日だったことを、沙良浬は忘れていない。
 朝五時四十八分に目が醒めて、急に何もかもがいやになってしまったのだ。生きているというそのことさえもいやになっている自分に、ひどく混乱していたことを沙良浬は覚えている。
 最初の一日は、ひどい頭痛がするといって休んだ。母親は特にそれを疑わず、沙良浬を休ませることを学校に連絡してくれた。三日続けて頭痛がすると言ったら、四日目には母親に病院に行こうと言われた。沙良浬はそれを何とか誤魔化し、部屋にこもってベッドに転がっていた。
 週末になって、父親と母親が沙良浬を部屋から呼んだ。沙良浬に理由を問いただそうと思ったのだ。父親は心配そうに沙良浬を見つめ、母親は妙に優しい声で沙良浬に聞いた。どうして学校に行きたくないのか、と。丸一週間も本当とは思えない理由をつけて学校を休めば、いくら何でも「行きたくない」のだということには誰だって気がつくだろう。それが両親ならばなおさらのことだ。
 我儘を行っていないで、学校に行きなさい、そう頭ごなしに叱られた方が、沙良浬には気が楽だったかもしれない。
「何もしたくないの」
 母親は、眉間に皺を寄せたまま表情を固くした。父親はさらに心配そうに沙良浬に詰め寄った。
「……いじめられてるのか」
 両親とも、それを一番に心配していたらしい。しかし沙良浬はそれをあっさりと否定した。
「そんなことないよ。みんな仲良くしてくれる」
「それじゃあ、何で」
 母親の声のトーンが僅かに上がる。いじめがあったわけではないことにほっとしたものの、沙良浬の「何もしたくない」が単なる我儘に思えて、苛立ちを覚えたようだ。
「だから……」
 沙良浬はそこで口篭もる。自分でも解らないことを問われても、答えようがない。
「……だからって、何がだからなんだ?」
 父親も少し声の調子を変えた。
「行きたくないんだもん、しょうがないでしょ。――何にも、何にもしたくないの」
 両親は顔を見合わせた。
「自分でもよく解らないの。でも、いやになった」
「だってお前、お前は何でもよくできるし、いじめられてるわけでもないんだったら、行きたくない理由なんてないじゃないか」
「そうかもしれないけど」
 沙良浬はそれ以上何をどう言えばいいのか解らなくなって、ただ両親を見た。両親は両親で、ずっと「いい子」でいた沙良浬が急に訳のわからないことを言い出したことに、ひどく困惑している様子だ。
「……月曜日からは行くわよね?」
 母親が沙良浬の目を覗き込んだ。沙良浬は答えられなかった。
「だって、ずっと行かないって訳にも行かないでしょう。今はまだ授業にもすぐに追いつけるかもしれないけれど、これから高校受験に向けて大変になっていくのよ?」
 沙良浬は黙っている。
「卒業も進学もできなくなっちゃうでしょ?」
「そうだ。高校はどうするんだ」
「……高校なんか行かなくてもいいもん」
 両親はあ然として沙良浬を見ていた。まるで珍種の猫でも見つめるような目付きだった。
「――本当に、もう行かないの?」
 最後に母親が確かめた。沙良浬はそれに曖昧に頷いて、両親の前から自分の部屋に逃げ帰った。
「待ちなさい、沙良浬!」
 父親が階段まで追って来たが、沙良浬は振り返りもせずに部屋に飛び込んだ。
 それから何日かは、毎日どちらかが沙良浬の部屋のドア越しに、今日は行くだろう? と尋ねた。沙良浬は返事もしなかった。季節は移って、学校は夏休みになった。
 夏休みが終わり、両親はもう何も言わなくなってしまった。ただ学校にはしばらく休ませる旨を伝えたようだった。
 仲の良かった友人たちも、最初のころは心配して電話をしたり、訪ねたりしてくれたが、秋頃にはもう誰も何もしてこなくなった。沙良浬はそれに対して特に悲しいとも思っていなかった。
 沙良浬の母親はパートに出ていて、二つ違いの弟はサッカー少年団に夢中になっていたから、昼間、沙良浬は家にひとりきりだった。ひとりきりの時には家の中を歩き回り、食べたいものを勝手に食べたりしていたが、誰かが帰ってくると部屋に篭った。休日には、トイレに行く以外はずっと部屋で過ごしていた。
 そんな風に、三年近い月日が過ぎ去った。
 この三年は、沙良浬にとっては苦しい三年だった。
 周りから見れば自分の世界に閉じこもって、何もしないでだらだらと過ごしているだけだろう。でも沙良浬には毎日毎夜一時間一分一秒が苦しかった。生きていることが辛かった。いやだった。
 今もそれは変わっていない。
 ――いつまでこんなことが続くんだろう?
 沙良浬は不安な気持ちを抱え込んだままで、ただ生きている。生きていたくない、そうは思っていても、自殺するのはいやだった。沙良浬の考え付いたどんな方法でも、きっと痛くて、苦しいに違いないから。死ぬのは怖くない。でも痛いのや苦しいのはいやだった。誰か神様みたいな人がいて、沙良浬から時間を奪い取ってくれればいいのに、と思う。
 だからこそ毎夜、明日は目が醒めませんように、と祈るのだ。
 苦しまずに、気付かないうちにこの時間が終わる。
 沙良浬はただひたすらに、そんな瞬間が自分に訪れることを待っていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?