見出し画像

+++ 2 +++

 男は振り仰いだ顔を戻して、ゆっくりと優美なお辞儀をした。
 身体を戻した男に、真っ白でふわふわの何かが降りかかる。
 雲ひとつない真っ青な空から、白いものが舞い落ちているのだ。
 風がほとんどないためか、ゆっくりと白いものは地上を目指す。
 雪なんかじゃないじゃない、明らかに怒りを含んだ調子で言われて、男は笑いながら答えた。この雲のない青空のように、真直ぐな笑顔だった。
「もちろん。本物を降らせるなんて言った覚えはないけど?」
 そうして右腕を振り上げる。
 男は視線を自らの右腕に注いだ。視線の先から、さらにふわふわと白いものが舞い落ちる。
 男は掌を空に向けて、舞い落ちる白いものを受けている。
 舞い散り、舞い落ちる雪の中に、ひとり佇んでいるようだった。
 男の頭に肩に背中に、白いものが本物の雪のように降り積もる。男は軽くそれらを払って、わざと寒そうに両手に息を吹きかけて見せた。
 息が白く凍るのが見えるようだった。
 本当に雪の中にいるようだった。
「ね? こうすれば本物みたいじゃない?」
 男が嬉しそうに笑う。そして降る雪とじゃれる子どものように、あたりに散る白いものと戯れはじめた――。

*   *   *

 今日もまた沙良浬(さらり)は五時四十八分に目を醒ました。
 憂鬱な気分は、今日も変わらない。相変わらず寝不足気味の頭には、うっすらと靄がかかっていた。ベッドの中で寝返りを打って、沙良浬は何気なく遮光カーテンに覆われたままの窓に視線を注いだ。
 雨の気配。
 この小さな空間で生活しているうちに、沙良浬は外を見なくても天気が解るようになっていた。晴れても降っても曇っても、嵐になろうと日照りになろうと、常にこの部屋に守られている沙良浬には何の関係もない。それなのに沙良浬は天気をちゃんと知っていた。晴れが続くと空気が刺々しくなることや、雨の時には雨のにおいと気配が自分を包むこと、雲が重く垂れ込めると、まるで自分の頭のすぐ上に雲が浮かんでいるような重苦しさを感じること――。
 間違いなく、雨の気配だった。特別それで気が滅入るということもないが。沙良浬はもう一度寝返りを打った。今日は二度寝出来そうになかった。
 沙良浬は自分の視線が遮光カーテンに――いや、窓に吸い寄せられるのを感じた。じっと窓を見る。そのうち沙良浬は遮光カーテンを開いて外を見てみたい衝動に駆られた。衝動を感じたこと自体が、沙良浬にとってはもう数年ぶりの出来事で、そんなふうに考えている自分に、沙良浬は驚き、動揺していた。
 理由は全く解らない。でも、外を見てみたい。その気持ちが急激に沙良浬を押し包んで、突き動かされるように窓に寄って、遮光カーテンを勢いよく開いた。しゃっ、と気持ちのよい音がして、風景が視界に広がった。
 絹糸のような滑らかな細い雨が静かに静かに降っている。
 春の風景が雨に濡れて、寂しげに見えた。
 ベランダには庇が出ていて雨が降りこまない造りになっているので、沙良浬はそっと部屋からベランダに滑り出た。ずっと使っていなかったスリッパが、風雨に晒されてすっかり色褪せていた。それに今の沙良浬には窮屈なサイズだった。
 沙良浬は用心深く息をした。まるで毒ガスが撒き散らされたあとにやってきたみたいに。最初の一呼吸が沙良浬の胸にすうっと染み渡る。雨のせいか冷たく、澄んだ空気だった。沙良浬はゆっくりと、確かめるように静かに呼吸を繰り返した。沙良浬の中に、何か新しいもの、美しいもの、優しいものが少しずつ広がっていく。沙良浬はその時点では、まだそのことに気がついていなかった。
 沙良浬はほんの少しだけ、何かを取り戻したことに気がついていなかった。ただ、ぼうっと外を眺めていただけだった。
 何年も目にしていなかった庭は、昔よりも色彩に乏しく、くすんで見える。母親は庭で色とりどりの花を育てていたはずだった。今の時期なら球根の花が咲いていてもおかしくはないのに、それがひとつも見当たらない。それが沙良浬をなんだか暗い気分にした。
 くぅくぅ――。
 突然足許で何かの鳴き声がした。沙良浬がそちらの方に目を向けると、真っ白な鳥が寒さに震えながらうずくまっていた。
「鳩……?」
 沙良浬は鳩の隣にしゃがんだ。両手でそっと鳩を掴む。鳩は身じろぎもせずに沙良浬のなすがままになっていた。羽を濡らした鳩の震えが沙良浬の両掌にじかに伝わってきた。とりあえず沙良浬は鳩を掴んだまま部屋に戻る。毛布の間にそっと降ろすと、タオルで身体を拭いてやった。鳩のビーズのような赤い目が、じっと沙良浬を見ている。新しいタオルで身体をくるんであげてから、沙良浬は窓を閉めた。
「――いい子ね」
 沙良浬は自分が微笑んでいることに、そのとき初めて気がついた。
 鳩は首を持ち上げて、じっと沙良浬を見つめている。沙良浬は鳩の首筋から身体にかけてを、ゆっくり優しく撫でてやってから、そっと部屋から出た。
「……鳩って、何食べるのかな」
 口の中でそう呟いて、食パン、ピーナッツ、サラダ菜、それにガラスの器になみなみの水と、水を満たした五百ミリのペットボトルを持って部屋に戻った。パンを小さくちぎって、鳩の口許に持っていくと、鳩は遠慮がちにそれをついばんだ。何度かそれを繰り返しているうちに、階下で母親が朝食の支度を始めたらしい気配を感じた。もう六時半を廻っていた。
 くるっくー。
 鳩が微かに咽喉を鳴らす。
「おいしい? よかった」
 鳩は何度か首を上下させて、そして下げた。そっとガラスの器を差し出すと、器用に水を掬って飲んだ。



 三日間、鳩は黙って沙良浬の部屋で過ごした。たまに羽ばたきをし、部屋の中に三度ほど糞を落とされたのは頭に来たが、とても「いい子」だった。誰かのペットだろうな、そう思いながら、今日も沙良浬は飽きもせずに鳩を見ていた。
 真っ白な鳩は、天の使いのように見えた。
 ――この子が急に可愛い男の子かなんかになっちゃっても、あたし、びっくりしないだろうな。
 沙良浬は目の前の鳩が五、六歳くらいの可愛らしい子どもに変化する様を思い浮かべた。小学生の頃は、沙良浬はこんなふうに空想の羽を思うままに広げて、その世界で遊ぶことも多かった。中学に入るか入らないか、という頃から少しずつ減っていき、あの頃にはすっかり「空想」を忘れ去っていた。しかし今の沙良浬は、ずっと空想を忘れていたことも忘れて、心地よい世界の中にいた。
 ――髪はくりくりの金髪のくせっ毛で、肌は大理石のように白くて。瞳の色はきれいなルビーのような色。
 空想の世界で、男の子はにっこりと微笑んで――両頬にくっきりとえくぼが出来る――、沙良浬に向かってぺこりと頭を下げる。
 ――ありがとう。
 鈴を転がすような軽やかな声が、沙良浬の頭の中に響いた……。
 沙良浬がそんな空想に遊んでいると、鳩が突然鳴いた。しきりに羽をばたつかせている。
「何? 帰りたいの?」
 沙良浬の問いかけに、確かに鳩が頷き返したように見えた。
「そっか」
 鳩がやってきてから初めて、沙良浬は再び遮光カーテンを開いた。昼間の太陽がまぶしい。今日はよく晴れていた。
「ほら。おいで」
 沙良浬は最初のときと同じように、そっと鳩を掴んだ。ベランダに出ると、手すりに鳩を預けた。あとは飛び立つのを待つだけ。鳩は手すりから飛び降りるように宙に滑って、その一瞬後には飛んでいた。沙良浬は神秘を見た気がした。しかし鳩は辺りを旋回しているばかりで飛び去ろうとはしない。沙良浬はじっと鳩を見た。
 鳩はしばらくそのまま旋回を続けていたが、やがて諦めたように飛び去った。
 沙良浬はじっと鳩が飛び去った方向を見つめていた。
 白い点がすっかり視界から消えてなくなって、沙良浬は深い喪失感に襲われている自分に気がついた。たったの三日だった。でも鳩は、沙良浬にいろいろなものをくれた気がした。沙良浬は気持ちを落ち着けるように深呼吸を繰り返して、そっと部屋に戻った。
 鳩がいなくなった、というただそれだけのことで、沙良浬の部屋の空気は急に寂しく重苦しいものになってしまったようだ。諦めに似た暗い気持ちが沙良浬を包む。
 何もかもが嫌な自分が、舞い戻ってきたような気がした。
 沙良浬は声をたてずに泣いていた。
 涙が一粒生まれるたびに、沙良浬の中に染み込んでいた新しい何かが、流れて落ちていくようだった。



 数日の間、沙良浬はそれまでの生活に戻り、ただ毎日をやり過ごしていた。重く苦しい空気が沙良浬を取り巻いて、沙良浬は息をするのも苦しかった。何をするにも以前にもまして面倒で、食べるのも飲むのも、トイレに立つのさえ億劫だった。ぼんやりとベッドにもたれ掛かって、起きているのか眠っているのか解らないような虚ろな目をしていた。
 ふと、外から何かが呼んでいるような気がした。沙良浬は一瞬だけ頭を上げてカーテンを見たが、すぐに元の姿勢に戻る。しかし静かな水面に投げ込まれた石が波紋を広げるように、ゆっくりと、沙良浬の心に訴えかける何かを感じた。のろのろと立ち上がって、カーテンに手をかける。少しだけ開けて、その隙間から外を見た。
 ベランダの手すりに、あの鳩が止まっていた。
 沙良浬は静かに窓を開ける。
「また来たの?」
 沙良浬は小さな声で鳩に問う。鳩はそれに答えるようにくぅくぅ、と鳴いた。そしてするりと空中に滑り出た。沙良浬はそれを追うようにベランダに出る。鳩はこの部屋から飛び去った時のように、沙良浬の頭上を大きく旋回していた。沙良浬は手すりに凭れて、鳩を見上げていた。突然、沙良浬の中に、鈴を転がすような軽やかな声が響いた。
 ――一緒に行こう?
 そう、誘われた気がした。
 沙良浬は弾かれたように部屋に飛び込んだ。
 ――あの子が呼んでる。
 本当にそう思った。Tシャツの上にデニムの厚手のシャツを羽織って、春物のフレアスカートをはいた。素足のままで部屋から踊り出て、階段をあっという間に駆け下りた。玄関の脇にある鍵をひっつかんで、ぺたんこサンダルをつっかけた。
 ドアには鍵がかかっている。鍵に伸びた沙良浬の手は緊張で震えていた。
 ――行くの? 本当に?
 沙良浬は自らに問いかける。手はさらに細かく震えた。こく、と生唾を飲み下して、沙良浬は口の中で呟く。
「あの子が……呼んでるもの」
 言い訳をする子供のように、その言葉を何度も何度も呟きながら、思い切って鍵を廻す。がちゃり、という音が高く響いて、沙良浬の鼓膜を打った。
 ノブに手をかけ、ゆっくりと廻す。
 意を決して、勢いよくドアを開けた。
 運命の扉が微かに軋む。
 それは沙良浬が新しい世界に迎え入れられた瞬間だったことに、沙良浬はまだ気付かない――。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?