籠の鳥

 身体の自由が奪われれば奪われるほど、心は自由に大空を翔けた。

 私はそんな時、声を限りに歌い続けた。朝も、昼も、夜も。

 私の歌声は格子のはめられた窓を通り抜け、高く響き、低く唸り、多くの人の耳に届いたという。ある人はぼうっとした様子で私の歌声に耳を傾け、またある人は落涙とともに私の歌声を聴くという。だが私には、そんなことは関係なかった。心が自由に求めるままに、歌って、歌って、歌った。

 今の私には、歌うことしか残されていなかった。

「また歌っているようだね、ファルシャの歌姫は」

「ああ。あれで情に訴えて、自分の無実を証明したいようだが……そううまくいくものかね」

 街外れの塔の監視を仕事としている男たちが、塔の最上階から流れ落ちるナルシュの歌声を聞いて、囁きを交わした。ナルシュは今は亡き王から深い寵愛を受けた、美貌の歌姫だった。ファルシャという芸事で身を立てる集団の生まれで、そこからファルシャの歌姫、と呼ばれるようになったという。その噂を聞きつけた王がナルシュを王城に呼び寄せ、美声と美貌に魅せられ、手許に置くようになってから二年余りが経っていた。王が亡くなったのは、ナルシュが献上したという酒に毒が盛られていたせいであり、王は何も疑わずにそれを口にし、半刻も苦しまずに息を引き取った。毒を盛られたというのに、死に顔は驚くほど穏やかで、口許には、まるでナルシュの歌を聴いているかのような微笑すら浮かんでいたという。

「そんな明らかな状況だったってのに、言い逃れられると思っているのかね?」

「さあね。ま、誰にも何の文句も言われないからいいんじゃないの? それにさ――あの歌を聴こうと思ったら、以前なら目玉が飛びでるほど金がかかったんだろう? それを毎日毎晩聴けるなら、儲けもんじゃねぇか」

 ナルシュはすぐに捉えられ、罪人が収容されるこの塔に連れて来られた。手と足に枷をはめられ、満足な食事も与えられず、来る日も来る日も厳しい取調べと拷問を受けた。それでもナルシュは自らの無実を訴え続け、こうして歌を歌い続けていた。

「……王を殺した女の歌でもか」

「それも箔がついた、ってもんだろうよ」

 男たちはにやにやと笑いあって、静かに流れるナルシュの歌を聴いた。

 私がここに連れて来られてから、一体どれほどの時が過ぎたのだろう。私は僅かに光の指す格子窓に目を向けて、ほうっと深く息をついた。

 まだだ。

 私はまだ、満足するほど歌っていない。

 私がそう思ったときには、既に口をついて歌が流れる。私の意思がどうこうというよりも、今では、私の口が勝手に動いて、歌を垂れ流しているようなものだ。それでも私は満足できず、歌って、歌って、歌った。

 どれだけひどい目に遭おうと。どれだけ苦しい拷問にかけられようと。

 私は歌える。

 歌を歌うことは、私の無上の喜び。

 私の心は、どこまでも自由だった。

「ほら。出な」

 短い声がして、ナルシュはぴくり、と身体を震わせた。ぼうっと霞んだ視界の中で、皮の鎧を着込んで、手にはしっかりと槍を握った看守が立っていた。

「あんた、今までよくあんなに歌い続けたな。国中から、陳情が寄せられてな」

 もう一人の看守がナルシュの足枷の鍵を外し、それでも手枷はつけられたままで、ナルシュは狭い監獄から連れ出された。

「本当に王を殺した人間が、あんなに澄んだ、悲しげな歌声で歌うはずはない、ってな」

 ふらつく足取りで、ナルシュは懸命に看守に付き従った。看守は確かめるようにゆっくりと塔の階段を下りながら、話を続ける。

「……王を殺したのは、嫉妬に狂った舞姫だと。あんたも知ってるだろう? サルサスの舞姫――稀代の舞手と名高い、あのネイナのことさ」

 ナルシュは僅かに頷いた。ネイナならばよく知っている。たまにナルシュの歌にあわせて、ネイナが踊った。それを王は喜んだ。ナルシュもネイナも仲がよく、裏表のない、真っ直ぐな性格のネイナが、そんな愚かなことをするとは思えなかった。ただ、ネイナはナルシュがやってくるまでは毎日のように王に召されて、踊りを披露していたという。ナルシュが来てからしばらくは、気楽な口調で「解放されて楽になった」と言っていたが、それは本心ではなかったのだろうか。自らが一身に受けていた寵が移るのを、成す術もなく見るだけだったネイナ。

「女ってのは、つくづく恐ろしいね。さ、行きな」

 塔の門の前で、やっとナルシュは手枷を外された。看守の言葉に、ナルシュは反論したかった。

 いいえ、恐ろしいのは権力を持った男。自分の思いつきのままに女を愛し、そして放り出す。そんなことさえしなければ、王だって命を落としたりはしなかったろうに。

 だが、ナルシュにはそんなことは言えなかった。放り出されるように外に出て、ナルシュは深く息を吸った。新鮮で冷たい空気に、肺が僅かに軋むような気がした。それでナルシュは、もう冬が近いことを悟った。捕らえられたのは春先の出来事だったことを今更のように思い出して、長い時間を監獄で送っていたことを知った。

 私は自由。

 自由になった。

 私はその言葉をかみ締めるように心の中で呟いて、塔の門から一歩踏み出した。冬が近い今の時期に、裸足で歩くのは辛かった。足の裏から大地の冷たさが染み込んでくるようで、私は震えていた。それから、今更のように私は文無しであったことに気がついた。今までは王の寵愛の元、何一つの不自由も不満もなく、歌うことだけを求められ、幸せに生きていた。

 これからどうすればいいのだろう?

 あれほどに私を可愛がって下さった方も、今はもういない。

 ナルシュは行き先も定められぬまま、とぼとぼと道を歩いた。ふと歌を口ずさんで――ナルシュは愕然とした。以前のように、澄んだ歌声もつやのある歌声も出なかった。掠れるような、搾り出すようなナルシュの歌声は、もはや歌姫の名をほしいままにしたナルシュのものではなくなっていた。途中、通りかかった川の面に自分の姿を映して、ナルシュはさらに深く傷ついた。

 かつての美貌も、そこにはなかった。豊かな髪はすっかり薄くなり、眉間と口許には皺が刻まれていた。唇もかさかさで、肌は荒れ果てて。

 すっかり別人のようだった。

 ナルシュは涙をこぼし、力尽きたようにその場に座り込んだ。

「こんな時期に身投げかい?」

「何でも貧しい身なりの女だって言うじゃないの」

「食うに困って、もう身投げをするしかなかったのかもね」

 野次馬がわいわいやっている川べりを、女たちは、無責任な言葉を吐きながら通り過ぎた。

「そういや――最近、ファルシャの歌姫、歌っていないようじゃないか」

「あら、おかみさん知らないのかい? 王を殺したのは歌姫じゃなくて、舞姫だったって話じゃないか」

「へぇ、そうだったの? ああいう人たちも、かわいそうっちゃかわいそうなひとたちだわよね」

「でも、一時期とはいえ、王様みたいな生活が出来たんだから、いいじゃないの」

「そりゃそうだ」

 晩秋の空の下、女たちは小さく笑い合いながら家路を急いだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?