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+++ 6 +++

「ありがとうございました――」
 男は笑顔を浮かべたままで、優美な動作でお辞儀をした。
「これで本日のショウは終了です。……最後までお楽しみいただけましたでしょうか?」
 ――……とっても……。
 たったそれだけの言葉に、男は今までで一番の笑顔を浮かべて。
「そう? そう思ってもらえたなら、僕もとても嬉しいよ」
 男は自分の両手に視線を落として、静かに語った。
「僕はね、たくさんの人に楽しんでもらって、喜んでもらえるような手品師になりたいんだ。今までたくさん練習して、たくさんたくさんショウをしてきて、それでもやっぱりお祖父さんには敵わない。……きっといつか、僕はお祖父さんを超える手品師になるんだ。そして、小さな僕が思ったみたいに、小さな人たちにこう思ってもらいたいんだ。……」
 男は最後の台詞を言ってから、照れたように笑った。
 ――きっとなれるよ。
 その言葉に、男はしっかりと頷き返した――。

*   *   *

 翔陽(しょうよう)は今まで沙良浬(さらり)が何度か見てきた手品を、改めてやって見せてくれた。見慣れたはずの手品は、スーツに身を包んだ翔陽が真剣に取り組んでいるせいか、沙良浬の目には新鮮に映る。
 真っ赤な蝶ネクタイが、翔陽が動くたびに本物の蝶のように見えた。いつもはたくさんつけている銀の指環は、今日は右手の薬指と小指にしかなかった。今日のスーツ姿とはなんだか不釣合いな感じがした。沙良浬はそんなふうに思って、翔陽に遠慮がちに声をかけてみた。
「今日はなんだか、指環が似合ってないみたい」
 すると翔陽は、悪戯を咎めたてられた少年のような表情で、こんな風に言った。
「本当は指環なんてしてちゃだめなんだ。そこに何か仕掛けてあるんじゃないか、って思われちゃうから」
「そうなの?」
 驚いた様子で問い返した沙良浬に、翔陽は答えた。
「本当のショウの時はしてないよ。でも、沙良浬の前では特にはずした覚えもなかったから、この方が自然かな? って思って」
 翔陽はワゴンからシルクハットとステッキを手にとって、沙良浬にそれを見せる。中まできちんと見せてからテーブルにシルクハットを置き、ステッキで軽くたたいた。シルクハットが震えて、ひょこ、とウサギが顔を出した。
 ウサギはお辞儀をするように何度か頭を上げ下げした。翔陽がそれを掴み出して、ワゴンの下の段に置いてあったゲージに入れる。そしてまたちょん、と叩くと、同じように震えたシルクハットから、今度はユキが飛び出した。ユキは翔陽の頭上を二、三度旋回して、沙良浬の前にやって来た。
「今日はこっちでいいの?」
 沙良浬が尋ねると、翔陽は仕方なしに、というような笑顔で答えた。
「ユキも沙良浬に会えなくなるのが寂しいだろうから。今日だけ特別にね」
 翔陽の言葉に、ユキが頷いたように見えた。沙良浬は微笑んで、また翔陽に視線を戻す。
 一通りの手品をやり終えて、翔陽が軽くお辞儀をした。沙良浬は惜しみない拍手を送る。
「約束したよね、沙良浬と。これからやるから、ちゃんと見ててね」
 翔陽が言って、流れるような優美な動作で両腕を振り上げた。腕の動きに合わせて空を仰ぐ。抜けるような真っ青な空。沙良浬も思わず目を空に向けた。

 ふわっ――…………………………。

 翔陽は振り仰いだ顔を戻して、ゆっくりと優美なお辞儀をした。身体を戻した翔陽に、真っ白でふわふわの雪のような何かが降りかかる。一瞬沙良浬は目を疑ったが、すぐにそれが作り物の雪であることに気がついた。足元に舞ってきた一片をつまんでみると、それは三角に切り刻まれた紙切れだった。少し遠くには、真っ白な羽毛が落ちていた。
「雪なんかじゃないじゃない」
 沙良浬は怒りを含んだ口調で言った。でもそれは照れ隠しにそうなってしまっただけのことだった。そんな沙良浬に、翔陽は笑いながら答えた。この雲のない青空のように、真直ぐな笑顔だった。
「もちろん。本物を降らせるなんて言った覚えはないけど?」
 そうして右腕を振り上げる。翔陽は視線を自らの右腕に注いだ。視線の先から、さらにふわふわと白いものが舞い落ちる。
 翔陽は掌を空に向けて、舞い落ちる白いものを受けている。
 舞い散り、舞い落ちる雪の中に、ひとり佇んでいるようだった。
 翔陽の頭に肩に背中に、白いものが本物の雪のように降り積もる。翔陽は軽くそれらを払って、わざと寒そうに両手に息を吹きかけて見せた。
「ね? こうすれば本物みたいじゃない?」
 翔陽が嬉しそうに笑う。そして降る雪とじゃれる子供のように、あたりに散る白いものと戯れはじめた。しばらくそうして戯れていた翔陽は、踊りながら歌うように話し始めた。
「物心ついた時からね、お祖父さんを見ていたよ」
 ちょっとした昔話だよ――翔陽はちょっと笑って。やはり澄み切った真直ぐな笑顔だった。
「初めて見た時は、ものすごくどきどきしたよ。何もないハズなのに、次々にいろんなものが出てくるんだからね。僕のお祖父さんは、本物の魔法使いだ、ずうっとそう思っていたよ」
「……今はどうなの?」
 遠慮がちに沙良浬が問う。問われた翔陽は、やはり踊りながら楽しげに言い切った。
「もちろん今でもそう思っているよ。僕のお祖父さんは魔法使いだ、ってね」
 踊りながら、左手をそっと差し出す。指先が微かに空に向かった。そしてそこからまた、白いものが舞い上がる。
「……」
 翔陽が微かに口を動かしたが、沙良浬にはその言葉が聞き取れなかった。白いものに吸い込まれるようにかき消されしまったようだった。翔陽の口許には穏やかな微笑が浮かんでいる。
「さぁ。ここからが本番だよ」
 気を引き締めるようにしっかりとした口調で翔陽が言った。その足許には、降り積もる白。
 隙間なく積もったその白は、何よりも純潔な白だった。
 翔陽は沙良浬に向かって、ゆっくりと手を差し伸べる。
「何が本番なの?」
 そう問われて、翔陽は悪戯っぽく笑って、ウインクを送る。
「それは、見てのお楽しみ。――さ、ここに来て」
 地面に積もった白は、翔陽が踏みしだいたために乱れて汚れてしまったかと思われたが、全く穢れのないまま、最初に見た白、そのままの白でそこに積もっていた。沙良浬もその降り積もる白の上に立つ。
「僕の手をよく見て。種も仕掛けもないでしょ?」
 翔陽が両掌を差し出した。
「なんならボディチェックもする?」
 翔陽はいかにも楽しげな様子で笑う。沙良浬は軽く首を振った。
「いいわ。早く見せて?」
 沙良浬は翔陽の言った『本番』が気になって促した。翔陽は軽く頷いた。
「さぁ。空を――」
 翔陽の言葉に、沙良浬は空を見上げる。翔陽も空を振り仰いだ。
 ふわり、と何かが宙を舞う。沙良浬はじっと目を凝らした。身体がひんやりとした空気に包まれている気がして、沙良浬は両腕で自分を抱き締めた。
 翔陽が指をぱちん、と鳴らした。それを合図に、ふわり、ふわり、ふわり……何かが空から舞い落ちる。
 真っ青に澄み渡り、雲ひとつなく晴れ渡る空から。

 雪が舞い落ちていた。
 本当に本物の雪。
 頭や肩や、指に触れた瞬間に、溶けて消えてしまうほどに儚い雪ではあったけれど。
 本当に、本物の、雪だった。

 沙良浬は目を見開いて、ただ空を見つめた。はっと我に返って隣にいる翔陽を振り返る。
「これが今日のショウの、最大で最後の手品だよ――」
 翔陽は神妙な顔つきで言った。
「――どう? 気に入ってくれた?」
 翔陽はそうっと囁いた。大きな声を出したら何もかもが消えてなくなってしまう――そんなふうに思っているような、密やかな声。
「……これが、今の僕に出来る精一杯。でも、どうしても見せてあげたかったんだ……沙良浬に」
「――どうして?」
 沙良浬に問い返されて、翔陽はじっと宙を見つめながら。
「どうしてかな――? あの話を聞いたときに、僕の頭の中にも同じ風景が見えたから、かな。綺麗で不思議な風景。それがとっても印象的だった。……ねぇ、知っていた?」
「なにを?」
 そう尋ねられた翔陽は、口許に微笑を浮かべたままで言った。
「この不思議な風景、こんなふうに呼ばれてるんだって……」
 舞い落ちる雪が、微かな風に乗ってあたりに散っている。沙良浬はそれを見つめながら翔陽の言葉を待った。
「風花」
 翔陽が口を開いた瞬間、世界が色を失った。
 真っ白な世界で、翔陽の囁きが沙良浬の耳元に届いた。
「晴れているのに風に乗って降る雪を、風花って言うんだって。綺麗だと思わない?」
 沙良浬は心の中で、風花、と呟いてから頷いた。
「本当。綺麗な名前」
 沙良浬もそうっと囁いた――。

 そして。

 世界は何事もなかったように、元の姿に戻っていた。
 空は抜けるように澄み切った青。
 翔陽も抜けるように澄み切った笑顔で、ただそこに立っていた。
「ありがとうございました――」
 翔陽は笑顔を浮かべたままで、優美な動作でお辞儀をした。
「これで本日のショウは終了です。……最後までお楽しみいただけましたでしょうか?」
「……とっても……」
 たったそれだけの言葉しか、沙良浬には言えなかった。それでもその言葉に、翔陽は今までで一番の笑顔を浮かべる。
「そう? そう思ってもらえたなら、僕もとても嬉しいよ」
 翔陽は自分の両手に視線を落として、静かに語った。
「僕はね、たくさんの人に楽しんでもらって、喜んでもらえるような手品師になりたいんだ。今までたくさん練習して、たくさんたくさんショウをしてきて、それでもやっぱりお祖父さんには敵わない。……きっといつか、僕はお祖父さんを超える手品師になるんだ。そして、小さな僕が思ったみたいに、小さな人たちにこう思ってもらいたいんだ」
「どんな風に?」
 沙良浬が先を促すと、翔陽はぽつりと言った。
「あの人、魔法使いだ、って……」
 翔陽はそう言ってから照れたように笑った。
「――きっとなれるよ」
 沙良浬の言葉に、翔陽はしっかりと頷き返した。
「そのためにも、たくさん練習しなくちゃね」



「翔陽、ありがとう」
 別れ際。
 沙良浬は深く頭を下げた。
「こちらこそ」
 翔陽は相変わらず優しい笑顔を浮かべている。
「翔陽にね、会えてよかった。それから、ユキ、あなたにも」
 翔陽の肩で羽を休めるユキに沙良浬は微笑みかけ、ゆっくりと首筋と身体を撫でた。ユキが応えるように喉を鳴らす。
「……いつかまた、この街に来る?」
「それは――なんとも言えないかな。巡業のテントを張れるだけの土地も年々少なくなってきてるし、お祖父さんももう少しゆっくり廻りたいって思っているらしいから」
「そっか……でも、近くに来たら絶対見に行くから」
「うん。僕も待ってるよ」
 二人はそうして、しっかりと握手を交わした。
「絶対忘れない。翔陽が降らせてくれた雪のこと」
 沙良浬がしっかりとした口調で言う。翔陽はにっこりと笑う。
「……またね」
 沙良浬はそう言って、握っていた手を離した。
「うん。またね」
 翔陽が手を振る。
 沙良浬も手を振って、テントを後にした。たった一度だけ振り返って見ると、翔陽は手を振りながら、沙良浬を見送ってくれていた。沙良浬はそこでもう一度大きく手を振り返して、あとはまっすぐに家路を辿った。
 長い夏の日が僅かに傾いてきた。その光の中を、沙良浬はしっかりとした足取りで歩く。やっと、自分の足で歩き始めた――そんな気がした。



 次の日の朝。
 沙良浬はすっきりと目を覚まして、ベッドで半身を起こし、思い切り伸びをした。窓の外がいつもよりも明るいような気がして、そこで初めて目覚し時計の文字盤を見た。
 六時三十二分。
 五時四十八分ではなかった。
 ――新しい一日が始まったんだ。
 沙良浬は思う。そろそろ母親が朝食の支度を始める頃だ。今まで朝早く目覚めていたけれど、母親の手伝いをしようなんて考えたこともなかった。だけど今日は、母親とキッチンに立ってみたい気がした。ベッドからするりと抜け出して、Tシャツと短パンに着替える。部屋を出る前にベランダに出てみた。
 朝日に照らされた世界は輝いて見えた。沙良浬はしばらく世界を見ていた。五時四十八分の呪縛から逃れられた沙良浬には、全てが新しく、美しく感じられた。
 ――あたしも、きっと変わったんだよね……?
 心の中で、そう問いかけてみる。そうして、自分自身に向かって頷き返した。沙良浬は爽やかに晴れた夏の空に向かって笑顔を向けると、もう一度大きく伸びをした。
 ――よし!
 それから沙良浬は部屋に戻って、とんとんとん、とリズミカルに階段を降りた。キッチンからは包丁が葱を刻む音が微かに聞こえている。いつもと変わらない日常。繰り返される毎日の始まり。
 しかしそれは沙良浬にとっては、全く新しい毎日の、最初の一日の始まりだった。

*   *   *

「センセェおはよー」
 佳史(よしふみ)は今日も、登校してすぐに保健室のドアを開けた。
 保健室登校。
 佳史はそんな児童の一人だった。『保健室登校』常連児童は佳史ひとりだったが、何の用もないのに保健室にちょくちょくやって来る子どもたちが何人かいた。それでも『センセェ』は児童たちを追い払ったりしなかった。本当に具合の悪い子にしてみれば、それは少し落ち着かない保健室だったが、和やかな雰囲気であったことには違いない。
 佳史は毎朝、最初に保健室に行かないと教室に向かえなかった。佳史自身にも理由は解らない。だが保健室に寄って『センセェ』と話すと、不思議と教室に足が向くのだった。
「おはよう。今日は早いのね?」
 養護教諭が佳史に言う。佳史はあたりまえのように椅子に座って、養護教諭を見上げた。
「うん。ちょっとね。……センセェにすっげぇこと教えてあげようと思って」
「すごいこと? 何なの?」
 養護教諭は手を動かしながら尋ねる。ガーゼと脱脂綿を詰め替えているのだ。
「……おれ、魔法使いに会っちゃったんだ」
「魔法使い?」
 佳史の言葉に、養護教諭は眉をひそめた。佳史は元気に頷き返す。
「うん。……再来週の末に、文化センターでマジックショウがあるだろ?」
 養護教諭は記憶を辿った。最近忙しくて市の行事をきちんとチェックしていなかったが、そう言われれば確かにそんなお知らせを見たような気がする。
「そのマジックってさ、本当は魔法使いが魔法でやってるんだ」
 真剣に話す佳史に、養護教諭は尋ねた。
「何でそんなこと知ってるの?」
「おれ、見ちゃったんだもん」
「何を?」
「まだ若い男の人が、公園で手品を練習してたんだ」
「うん」
「話しかけたら、今度マジックショウをするんだよ、って教えてくれてさ、しばらく手品を見せてもらってたんだ。そしたらさ!」
「そうしたら?」
「どこにも何にもないのに、イキナリ鳩が飛び出してきたんだぜ? あれは絶対魔法使いだよ!」
 佳史の真剣な様子に、養護教諭はしばらく黙って考え込んでいるようだった。
「……センセェ、笑わないの?」
 佳史はどうやら、他の人にもこのことを話して『手品師なんだから、あたりまえだ』などと大笑いされたようだった。
「うん。……もしかしたら、本当の魔法使いだ、って、そう思ったほうが面白いような気がしない?」
「――そうだよね!」
 佳史は目を輝かせた。
「さっすがセンセェ、話が解る!」
 佳史は嬉しそうに笑った。養護教諭も嬉しそうにニコニコしている。そのときタイミングよく予鈴が鳴って、佳史は慌てて立ち上がった。
「いっけね! チコクになっちゃうよ。じゃ、センセェ、あとでね!」
 ばたばたと保健室から駆け出した佳史の後姿を見送って、養護教諭は市の広報のファイルをデスクの棚から引っ張り出して、文化センターのスケジュールを見た。
 どうして見落としていたんだろう?
 そこには間違いなく『葛城(かつらぎ)翔陽 マジックショウ』という文字が印刷されていた。
「やあね、あたしったら」
 ――約束、破っちゃうところだった。
 自然に、口元がほころぶのが自分でも解った。
 ――あとで佳史くんにお礼を言わなくちゃね。
 養護教諭はそう思いながら、ペン立てにあったマーカーで『葛城翔陽 マジックショウ』に印をつけた。
 ――少なくとも一人は、翔陽のこと、魔法使いだ、って思ったみたいよ?
 養護教諭――橘(たちばな)沙良浬はくすくす笑いながら、心の中で言ってみる。
 ――今でもあんなふうに笑うのかな?
 脳裏には翔陽の優しい、澄んだ笑顔が浮かんだ。沙良浬はふと視線を上げた。窓の外には青く広がる春の空。その青はどこまでも澄みわたり、沙良浬の目に美しい青を映した。
 それから沙良浬は、広報のファイルを元の場所に丁寧に戻し、再びガーゼと脱脂綿を詰め替え始めた。



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