月の輝く夜だから

 ベランダの手すりに身を乗り出して、希和美(きわみ)は一心に満月を見つめていた。満月が綺麗な夜だもの、絶対にあいつはここにやって来る――そう自分に言い聞かせながら、じっと月に見入る。月は太陽ほどに強い光を放つわけではない。それでも目の奥がじんわりと痛くなってきて、希和美は瞼を閉じて目頭をきゅっと、強く押した。
 そして再び満月を見る。
 だって、約束したから――絶対あいつは来る――何度も何度も希和美はそう呟いていた。自分の心に向かって言い聞かせるように。

*   *   *

 それは希和美が十一歳の誕生日のことだった。
 もともと月や星を眺めるのが好きな希和美に、両親は天体望遠鏡をプレゼントした。それほど倍率の高くない、ある意味で子供だましに過ぎない望遠鏡ではあったが、希和美は躍り上がって喜んだ。早速ベランダに据えて、ちょうど満月が出ていたのでそれを眺め始めた。
 三十分ほど眺めたころだろうか。
 月の脇を微かな光が滑り落ちた。流れ星!――そう思って希和美がそちらに望遠鏡を向けた時。
 望遠鏡には、人影が映った。
「……?……」
 希和美は望遠鏡から目を外した。レンズの向きを確かめてみたけれど、それはちゃんと空に向かっていた。もう一度望遠鏡を覗こうとして、希和美は息を呑んだ。
 目の前に、希和美と同じ年頃の少年が立っていた。
 少年も驚いたような表情で、じっと希和美を見つめている。
「「誰、あんた!?」」
 お互いの口から全く同じ言葉が飛び出して、二人は驚いてお互いを見つめた。
「……それは、あたしの台詞。あんたどっから来たのよ?」
「……ここ、お前の家?」
 少年は希和美の問いを無視して、希和美に問いかけた。希和美はそれにむっとしたが、とりあえず頷いておいた。
「そっ……かぁ。おかしいな――?」
 少年はしきりに首を傾げながら、腰にぶら下げた計算機のような機械をいじりまわしている。
「何がおかしいのよ?」
「ああ。そっか、解った」
 希和美を全く無視して、少年は一人、納得したように頷きながら。
 機械の赤く光るボタンを押した。
 希和美は、その一瞬後に自分の目を何度も擦って、何度も何度も瞬きをした。今自分が見たことが、どうしても本当のことだとは信じられなかったのだ。
 何故か?
 少年は、跡形も無く、その場から消えていたのだから。


 それからも、希和美は飽きることなく望遠鏡から夜空を眺めていた。
 あの満月の夜のことは――夢だったんだと考えることにした。両親も兄も信じてくれなかったし、友達にも笑い飛ばされた。そして皆が判で押したように「そんなこと夢に決まっている」と言うものだから、希和美にもそんな気がしてきたのだ。実際あれ以来、あの少年が希和美の前に姿を現したことは一度も無く、だからこそ希和美は夢だと信じられるようになっていたのだった。
 しかしあるとき突然に、それが夢ではなかったと希和美は知った。
 あの少年がふいに希和美の目の前に現れたのだ。
 あの時から、二年も経った冬の夜だった。
 空気が澄んで、星が綺麗に見える夜だった。
 コートや古い毛布で身体を包んだ希和美が、魔法瓶から暖かいココアを注いで、口を浸けた時、目の前に少年が立ち尽くしていたのだ。
「さっむー!」
 少年は悲鳴を上げると、細い腕を自らの両掌で擦った。希和美は呆然と少年を見た。危うくカップを落としそうになる。少年は暖かい湯気を立てるカップに目をやって、希和美に尋ねた。
「それなに? あったかそう」
 ああ、これココアよ、そう言いながら希和美は少年にカップを手渡す。少年はそれを両手で受け取って、口を浸けた。
「あっちっ!……でもうまいや」
 少年は喜んでココアを飲み干して、古毛布にもぐりこんできた。
「あったけー。ああ、寒くて死ぬかと思ったぜ」
 少年は首から上を毛布から突き出して、希和美に向かって笑った。希和美もつられて笑いかけて――そうじゃない! と思う。
「ちょっとアンタ、何者?」
 ひとつの毛布に包まりながら、希和美が鋭い視線を少年に向けた。
「ここ、お前ン家だろ?」
「……そうよ?」
 それが何なの?――希和美はそう思った。
「前に俺が来た家だよね?」
 少年は屈託の無い笑顔を浮かべたまま、言った。
「あの時びっくりさせただろうって思って、謝りに来たんだけど?」
「……今も充分驚いてるんだけど?」
 希和美が怒りを押さえた低い声で言った。少年は、ああ、そっか、と舌を出した。
「びっくりさせてごめんな。そんなつもりは無かったんだ。ただ、ちょっとしくじっただけで――あれ? お前デカくなってない?」
 少年はそこで改めて希和美を見た。希和美もじっと少年を見る。
 そうなのだ。
 少年は二年前、希和美の誕生日の夜に現れたときと全く変わらない姿で、希和美の前にいたのだ。全く変わらない、そう希和美が感じたのは、目の前の少年が今の希和美と同じ年頃には見えなかったせいだった。
 二年前、少年は希和美と同じくらいの年頃に見えた。しかし目の前の少年は明らかに希和美より幼かった。少しずつ蘇る希和美の記憶の中の少年と、今目の前にいる少年は、ほとんど変わっていないようだった。
「――とりあえず、アンタ何者なの?」
 希和美は心を静めるように、自分のために注ぎ直したココアを一口飲んでから、言った。
「俺? 弥一(やいち)。お前は?」
「希和美」
「キワミ? 変わった名前だなぁ? まぁいいか。それよか、びっくりさせてほんと悪かったな」
「そんなことどうだっていいわ。アンタ、どこから来たのよ?」
「自分の部屋から。こうすーっと空を飛んで」
 弥一は至極真面目な表情で答えた。
「空から?」
「うん。この前は数値を間違えてお前ン家に来ちゃったからさ、今日は謝りに来たんだぜ」
 そうして弥一は、古毛布からにょきっと腕を出して、あの計算機のような機械を出した。ぴっぴっぴ、とキーを打つ。
「ほら。これで帰れるんだ」
 弥一の差し出した機械のディスプレイには「13:00.24.Nov.01.61437.202-05.The.4th」と表示されている。
「――?――どういう意味?」
「時間と場所。十一月二十四日の午後一時に、第四コロニー二〇二-五番地の六一四三七ポイントに、ってこと。これで簡単に空間移動ができるんだって。原理はよく解らないけど」
「……それ、どこ?」
「第四コロニーだよ。火星と木星の間にあるだろ?」
 そんなことも知らないのかよ、弥一はそんな目で希和美を見た。
「ないわよ、そんなもの」
 希和美が言うと、弥一はあれ? という顔をした。
「………………ちょっと待てよ?……」
 しばらく何かを考え込んでいたが、あっ、と小さな声をあげた。
「今、何年?」
「今? 平成――」
「違う。西暦」
「二千一四年」
 希和美の言葉に、弥一は顔色を失った。
「やべぇ――」
 たった一言、それから慌てて毛布から飛び出した。
「バレたらどうしよう――?」
「ちょっと、弥一?」
 希和美が声をかけると、弥一は希和美を見た。緊張した瞳。希和美も背筋が寒くなるほどだった。
「また来る。理由はその時説明するからさ。おれ、急いで帰らなきゃ」
 一気にそう言った弥一に、希和美が言った。
「また……って、いつ来るつもり?」
 弥一は空に引っかかるように浮かんだ半月を指差して、笑って見せた。
「あれが奇麗に見える頃」
 弥一は既にいなかった。希和美はしばらく我を忘れてベランダに座り込んでいた。


 それから一度も弥一は希和美の前には現れていない。
 それでも満月の夜には、希和美はベランダに出て満月を見つめながら弥一を待った。また来る、と言ったときの弥一の真剣な顔を、希和美は今でもはっきり覚えている。
 今夜も来ない――希和美は恋人に振られたような寂しい気持ちで部屋に戻る。
 いい加減に夢だったと諦めて忘れてしまった方がいいのだろうか? 弥一のことはやっぱり夢で、そしていくら待ってももう二度と現れないって、思った方がいいのだろうか? それは希和美にとっては寂しいことだった。弥一と出合った不思議――それで希和美は地学と天文学をもっと真剣に勉強しようと思うようになっていた。大学もそういう方面を目指している。弥一が約束通りにやってきたら、希和美はお礼が言いたいのに。
 待っても待っても現れない。
 約束なんて、しないで欲しかった。
 何故か溢れそうになる涙を堪えて、希和美は膝を抱えた。

*   *   *

 一瞬小さな光が、希和美の目の前を通り過ぎた。
 あっ――希和美は小さな悲鳴を上げる。二、三度瞬いて、深呼吸をした。
 目の前に、弥一が立っていた。
 正確には、多分弥一だろうと思われる、二十歳前後の青年だった。
「……もう二度と会えないと思ってたよ」
 青年は静かに口を開いた。
「……弥一、よね?」
 希和美が確かめるように言うと、青年はそっと頷いた。
「そうか――。あれからもうしばらく経ってるからね」
 いかにもやんちゃ坊主だった弥一の少年時代とは、まるで別人のように落ち着いた様子で、目の前の弥一は言った。
「俺もね、いろんなことがあって大人になったから。希和美は?」
「うん。もう受験生だよ。地学と天文学を勉強したいの……」
 弥一のおかげで――そう続けたかったのに、希和美は言葉に詰まってしまった。
「それよりどうして、こんなに大人になっちゃったわけ?」
 希和美が尋ねると、弥一は少しつらそうな表情を見せた。しばらく呼吸を整えていたが、静かな口調で語り始めた。
「S級犯罪なんだ、本当は」
 突然の弥一の言葉に、希和美は何のことかサッパリ解らなかった。
「ええと、落ち着いて聞いて。俺は――もう解ってるとはもうけど、西暦三千六百九年から来たんだ。初めてここに来た時は三千六百一年。自分では空間だけを大きく移動しただけのつもりで、実は時間も超えていたんだ。
 時間を超えることは、歴史を変えてしまうかもしれないということで、仮に大きな歴史に関与しない、ただ行って戻っただけということでもS級犯罪として終身刑を受ける。それには大人も子供も関係ない。
 子供だった俺は、時間を超えてしまったことに気がついて、焦って帰ってあの装置を壊してしまった。移動履歴を調べられたらすぐにばれると思ったから。……完全に証拠を消したつもりだったんだけど、時間管理局に『時間移動装置』を作ったことがばれて、祖父さんが犯罪者になった。時間移動装置を作るだけでもA級犯罪だからね」
「……」
「――で、俺は何もかも忘れて普通に生活しようと思ったんだけど、希和美に『また来る』って言っちゃったことがどうしても忘れられなくてね。自分で新しい装置を作った。試作に二年、完成までに六年もかかったよ。……だからこんなに大人になってしまったって訳」
「約束のために罪を犯した、ってこと?」
「まぁ――結果的にはそうなるけど、でも、俺はどうしても守りたかったんだ。俺ってどうしようもないガキで、祖父さんに迷惑かけっぱなしだった。法螺吹きで悪戯坊主で、手に負えない子どもだったと思うよ。だけど祖父さんは俺を守って、俺が時間を超えたことを告発しなかったんだよな。どうしようもないガキを守って、監獄の中で死んだ。寿命だったから仕方ないとは言っても、ショックだった。
 今までひとつの約束も守れない俺を守って、一人で孤独に死んでいった祖父さんのために、希和美との約束を守りたかったんだ。だから希和美が気にすることじゃないよ」
 希和美はじっと弥一を見た。静かな微笑みは、希和美の心を乱した。
「約束を守ってもらえたのは嬉しいけど、それじゃあ弥一は犯罪者じゃない。これから、大丈夫なの?」
「……さぁ? でも、帰ったらばれないようにうまくやる自信はあるし。何とかなるって」
 そう言って笑った弥一は、幼い頃とちっとも変わっていなかった。
「あれ、って、月って言うんだって?」
 弥一が満月に視線を送った。同じように満月を見ながら、希和美が答える。
「そうよ」
「……初めて来た時も満月だったのは覚えてる」
「よく知ってるのね?」
「図書館で調べたからね。あの時はばかなガキだったから、なーんにも知らなかったけどさ」
 弥一は笑った。希和美もつられて笑う。
「……さて、と。そろそろ帰らなくちゃな」
「――」
 希和美は弥一を見上げた。この前会った時には、確か弥一は希和美より小さかったはず。
「気をつけて、ね」
 希和美はそれしか言えなかった。
「……そうだね。じゃ、元気で」
「弥一も」
 弥一は笑いながら手を差し出した。希和美もしっかりと握る。ごつごつとしたしっかりした手だった。
「――ありがとう」
 弥一が何の前触れもなく礼を言った。そして希和美の手を口許に持っていき、その甲にそっと唇を押し当てた。希和美はどぎまぎして、弥一を見ることが出来なかった。
「希和美と約束しなければ、俺どうしようもないままで人生終わってたよ、きっと。何かの間違いで紛れ込んじゃったには違いないけど、会えてよかった」
「うん……」
「……それからあとひとつ、俺、どうしてもやらなきゃいけないことがあるんだけど」
 弥一が言って、じっと希和美を見た。
「何?」
「希和美の記憶から、俺に関する記憶を消す、こと――」
 弥一の言葉に、希和美は息を呑んだ。
「約束したから来た、って言うのも偽りのない理由。だけどそれ以上に、俺は希和美の中から消えないといけない。万が一時間管理局の捜査があったら、何もかもばれてしまうからね」
 そう言って、弥一は寂しそうに笑った。
「希和美には申し訳ないけど……」
 言いながら、弥一は別の機械を取り出した。
「少し頭痛が残るかもしれない……でも大丈夫、後遺症はないから」
 そして緑に光るボタンを押そうとした。その手を希和美は遮った。
「待って」
希和美の真剣な様子に、弥一は手を止めた。
「お礼を言いたいの。あたしも。記憶を消される前に、ちゃんと言いたい」
 弥一は黙って希和美の言葉に耳を傾けた。
「――ありがとう、弥一。あたし弥一に出会っていなければ、きっと目標なんて持てずに生きていたと思うから。――ほんとに、ありがとう」
 希和美はじっと弥一の瞳を見た。弥一はにっこりと笑っていた。
「それじゃ――」
 弥一が再び装置に手を伸ばす。今度は希和美も邪魔をしなかった。希和美はそっと瞳を閉じた。

*   *   *

 月の輝く夜空の下で、希和美はベランダの手すりにもたれ掛かっていた。目の奥が鈍く痛むのは、きっと満月に見入っていたからだろう。
 ふと希和美は、自分の頬が濡れていることに気がついて、慌てて手の甲で拭った。
「……なんであたし、涙なんて――」
 希和美の脳裏を、悪戯っぽい笑顔を浮かべる少年の面影が過ぎった。が、それさえも一瞬後には希和美の記憶から抜け落ちた。
「――月の輝く夜だから、我知らず泣けてくる、ってこともあるのかもね」
 希和美は自分に向かってそう言うと、部屋に戻った。
 夜空を一筋の流れ星が疾る。
 その流れ星を見ていたのは、輝く満月ばかり――。


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