ー 2 ー

 俺は小さな喫茶店のテーブル席に、一葉(かずは)と向かい合って座っていた。
 一葉は運ばれてきたチョコサンデーを美味そうに頬張っている。たまに思い出したように紅茶に手を伸ばす。俺は一葉の様子を、ただぼんやりと見ていた。何をどう切り出そうか、そんなことばかり考えていた。
「ああ。美味しかった」
 一葉がかちゃりとスプーンを置いたのをきっかけに、俺は口を開いた。
「君に聞きたいことがあるんだけど」
 一葉は紅茶を一口啜って、俺が次の言葉を切り出す前に自分から言った。
「二葉(ふたば)に頼まれたの?」
「……」
 俺は黙った。調査の対象になる人物と接触したときでも、依頼主を明かさないのが俺のやり方だ。しかし俺が黙ってしまったことで、一葉は確信したらしい。
「あの子、何て言ってるの?」
「……君の態度が変わってしまった理由を知りたいそうだ」
 結局俺は、一葉の質問にはっきりと答えずにこう言うしかなかった。一葉はふうん、と気のない返事をした。
「理由なんてないわよ」
 一葉はぷいっと窓の外に顔を向ける。微かに頬のあたりに緊張が走っているように見えた。俺は一葉の緊張した横顔に向かって言った。
「俺が調べた限りでは、俺もそう思ったんだけどね。依頼主が引かない。『絶対に何か理由があるはずだ』ってね」
 俺はそこでラークをくわえた。灰皿に載っていたマッチで火を点ける。俺が改めて一葉に目をやると、一葉はきつい目で俺を睨んでいた。
「ない理由を話せ、って言うの? そんなの無理よ」
 そう言ったかと思うと、一葉は鞄を抱えて席を立った。
「チョコサンデー、ご馳走様。それじゃ」
 そして小走りにドアに向かう。
「おい、待ってくれよ」
 俺はラークを慌ててもみ消して、伝票を掴んで一葉を追った。レジで勘定に手間取ってしまい、俺が外に出たときには既に一葉の姿は見当たらなかった。一葉の大体の行動範囲は調べ上げているので、探そうと思えば探せなくもないが、そのときの俺には一葉を探す気はなかった。
 理由なんてない、そう言った時の一葉の表情。きっと何か理由がある。だが今日はもう何も語ってくれないだろう。もしかするといつまで経っても語ることはないのかもしれないが――とにかくその理由を掴まない限り、この仕事は終わらない。
 俺は出直すことにして、その日は真っ直ぐ事務所に帰った。
 そして俺は次の日から、一葉のあとをついて廻った。もうばれる事を警戒する必要もないし、なるべくしつこく食い下がって早いうちに喋らせてしまった方がいいと思ったからだ。初めの二、三日のうちは一葉も俺を警戒していたが、そのうちに気にしなくなった。
 まず、学校が引けるのを見計らって校門で待つ。一葉は学校からは大抵一人で出てくる。一葉は自分が通う高校には友人と呼べる人間がいないからだ。関わりを持っているのは不倫相手の教師だけ。ボーイフレンドも女友達も、全く違う学校に通っていたり、フリーターだったりする。俺は一葉を見つけると足早に一葉に近寄った。一葉は俺に一瞥もくれずに、俯き加減でさっさと歩く。一葉がバイトに行くのを見届けてから、さらにバイトが終わるのを待つ。そしてまた一葉に付きまとう。バイトが終わると、一葉は女友達の誰かに連絡をつけて、そのまま友達の家に上がりこんでしまう。そうなると俺は手も足も出ないので、事務所に帰る。
 一葉は、バイトがない日は携帯でボーイフレンドに連絡し、適当に時間を潰し、そしてやはり夕方から夜になると女友達に連絡をする。一葉は家には帰らずに、女友達の家を転々とした。
 次の二週間は、そうしている間に過ぎてしまった。
 その二週間の間に、俺は二度も一葉のボーイフレンドに「付きまとうな」と凄まれた。しかも別の二人に。どちらのときも俺はへらへらと笑いながら取り繕って難を逃れた。それから一葉は、俺の知る限りでは不倫相手の教師とは一度も外で会っていない。友人の家か、あるいは学校の中でうまく連絡を取り合っているのだろう。一葉と教師の不倫の現場を抑えて、教師にも接触してみたいと考えていたが諦めるしかないようだ。
 俺は二葉に報告のしようがなかったのだが、二週間ごとの報告は契約で決められていることなのだから仕方がない。俺はその二週間についてありのままに語って、そして最後に付け加えた。
「本人がそう言っているのだから、もう諦めた方が賢明かと思いますが」
「……」
 二葉は黙って俺を見た。俺は小さくため息をつく。
「これ以上の調査は無理ですよ。一葉さんの態度は頑なだし、貴女が考えているように何か理由があって会わなくなったとするなら、きっと言いたくない理由なんでしょう。それを察して差し上げたらどうです?」
「確かにそうかもしれないです。でも、わたしはどうしても知りたい。それからどうするか決めたいんです。お願いします。絶対に調べてください。理由が解るまで、調査はやめないで欲しいんです」
 二葉は深々と頭を下げた。
 ここまで来たんだから、最後までやるか。
 俺はそう決意して、二葉に言った。
「解りました。一葉さんが理由を明かしてくれるまでは調査を続行しましょう」
 二葉は顔を上げると、少しだけ表情を和らげた。何度も俺にお願いします、と言って事務所を出て行った。事務所の窓から見た二葉の後姿は、俯き加減や頼りなさまで一葉とそっくりだった。


 俺はその日も校門の外で一葉を捕まえた。
「今日はバイトがない日だろ?」
 俺は一葉にきつめの口調で言った。一葉が驚いたように俺を見上げる。
「二葉は君が理由を話すまで、調査を止めないと言っている。本気だよ、彼女は」
 一葉は何も答えない。俺は俯き加減で先を急ぐ一葉の背中に向かって声を張り上げた。
「揃いも揃って頑固だな、あんたたち。双子っていうのは、そういうところまで似るもんなのかねぇ。いい加減にしてほしいよなぁ、全く」
 ぴた、と一葉の足が停まった。俺を振り返ると、つかつかと半ば走るように俺の傍までやってきた。そして。
「アンタにそんなこと言われる筋合いじゃないわよ。ウンザリしてるのはアタシだって同じなの」
 よし、かかった。
 俺は内心でそう思いながら、表情や口調にはそれを出さずに一葉に言った。
「それじゃ、もう終わりにしようぜ? 君が全部喋ってくれれば、俺の仕事も終わる。君だってせいせいするだろう?」
 一葉は俯いて考えている。しばらく俺は一葉を見守っていたが、一葉が不意に顔を上げた。
「アタシと約束してくれる?」
 何を? と問い返す前に、一葉が俺の腕を取った。
「喋るわ。全部。ラクになりたいし」
 ラクになる? 俺は僅かに眉をひそめたが、それも一瞬のことだった。
 俺は一葉のなすがままになっていた。最初に喫茶店に入ったときのことをなんとなく思い出したが、一葉の様子はあの時とはまるで違った。きつく引き結ばれた口元には、やり場のない辛さが感じられる。寒さに震える小さな子どもを連想させた。
 一葉は俺の腕を取ったままでファミレスに入った。店内は学生や主婦で賑わっている。喫煙席の一角に小さく縮こまるようについてから、とりあえず俺たちはドリンクバーとポテトをオーダーした。
 飲み物を取って来て改めて席に落ち着くと、一葉の周りだけ空気が淀んでいるような気がした。明るく騒がしい店内で、一葉の周りの空気だけが沈んでいた。
「約束してくれる?」
 アイスティーで喉を潤してから、一葉は呟いた。俺が問い返すと、一葉は僅かに顔を上げた。
「誰にも話さないで欲しいの。これからアタシが話すことを」
「……でも、それじゃ俺はなんて報告すればいい?」
 二葉が知りたい理由を、俺は調査しているのだ。その理由を話さないなんて、それじゃ何の意味があるというんだ。
「突っぱねてよ。これ以上は意味がない、って」
 一葉は無理なことを言う。
「それが通らないから、こうして君に付きまとってるんだろ?」
「……お願いだから!」
 一葉の目は真剣だった。
「アタシが話せば、もう付きまとわないんでしょ?」
 俺は黙って頷く。
「だから、アタシは話すの。ホントは話したくなんかないわ。――でも、それじゃいつまでも『終わらない』し『ラクになれない』じゃない? 疲れたのよ。アタシ」
 俺だって疲れてるさ。心の中で俺は相槌を打つ。
「でも、誰にも言わないで欲しいの。約束してくれなきゃ話さない。貴方だって困るでしょ? 他の仕事も出来ないでしょうし」
 一葉は痛いところを突いてきた。そうなのだ。俺は一葉に付きっきりになっているので、他の依頼を受けられない。出来ることなら短い調査を次々にこなしたいのだ。その方が儲かるし、楽だから。俺が黙っていると、一葉は僅かに表情を崩した。
「取引しましょ。アタシは二葉に会わない理由を話す。貴方の目的はそれよね?」
「ああ」
「で、貴方はそれを黙っておく。調査の依頼は適当な理由をつけて突っぱねる。調査終了、依頼料が入る。……それでいいじゃない?」
「……」
 とりあえずそういうことにしておくか。俺は狡賢く計算した。一葉の言う『理由』だって、別に俺が二葉に喋ったところで一葉には解りようもないはずだ。それなら約束して、理由だけ聞き出せばいいじゃないか。
「――解った。呑もう」
 俺が言うと、一葉は寂しそうに笑った。そして再びアイスティーを飲んだ。俺もコーヒーを啜って、一葉の言葉を待った。そこでポテトが運ばれてきたので、一葉も俺も店員の動きを黙って目で追っていた。
「――二葉は恵まれてるのよ」
 店員が去るのを待ってから、一葉は思い切ったように口を開いた。
「両親が離婚して、アタシたち別々に引き取られたわ」
 一葉は一言喋るごとに、心の底に溜まった澱を吐き出すように、苦しげに顔をしかめた。それでも俺は、一葉が語るに任せていた。
「母さんが再婚したでしょ? 相手は、小さいとはいえ自分で仕事を起こして成功した人。二葉はお小遣いたくさん貰えて、中学もエスカレーターの私立に行かせて貰って。遊んでたって大学まで行けるし、大学でたら義理の親父さんのコネで就職だって出来ちゃうでしょうよ。――ま、あの大学を出たとなれば、どこでも簡単に就職できるだろうけど」
 一葉はそこで意地の悪い笑い方をした。
「服だって可愛くていいものたくさん買ってもらえるみたいだし」
 そう言われてみると、二葉は鞄も靴も本皮製のいい物を持っていた。
「……それなのにアタシは、呑んだくれで定職に就こうとしない親父に引き取られて」
 一葉は唇を噛んだ。
「――見て。これ、なんだか解る?」
 いきなり一葉が左腕を突き出して、制服の袖を捲り上げた。二の腕に、小さな火傷の跡が三つあった。引き攣れたその傷跡からは、火傷をしてから大分時間が経っていることが解る。そして火傷の原因は――。
「そ。親父の煙草。……親父は何かの腹いせにアタシに暴力を振るう。アタシはどこにも行き場がないから、毎日親父に怯えながら生きてた」
 一葉の睫が震えるのを見て、俺は何をどう言ったらよいのか解らなかった。
「親父は酔っぱらうとよくこう言いながらアタシを殴ったわ。――オマエの顔を見てるとあいつを思い出す、って。どうしてそんなにあいつに似てるんだ、ってね。親父にしてみれば、アタシは別れた女房の分身だったんでしょうね」
 一葉は両腕で、自らの身体を抱きしめるような格好をしていた。顔色も蒼ざめていた。
「高校生になってからはね、今度は親父の目つきが『女』を見る目に変わってきたのよね。……それくらいアタシにだって解った。ふざけて身体に触ったり、お風呂に入っているときにわざとらしくドアを開けられたことだって、中学のときからあったけどね、高校生になってマジでやばいって思うようになって。バイトして、たまに売りっぽいことをやって、お小遣い稼いでる。夜は友達の家を転々としてるの。家に帰りたくないから。
 高校の学費は、親父のお姉さんが出してくれてる。伯母さんはアタシがどうしようもない不良って
思ってるみたいだけど、それも親父が定職にも就かずに呑んだくれてるせいだからしょうがない、って思ってるみたい。それも就職したら返すことになってるけど」
 俺は一葉が抱えているものの一端を見て、一葉が空虚な理由を思い知らされたような気がした。それにしても、実の父から虐待された子供が、こんなにあっさりと過去の体験を語れるものなのだろうか? 俺がなんとなくそう思っていると、一葉が頬を引きつらせながら俺に問いかけてきた。
「何でこんなに普通に喋れるんだ、って思ったでしょ?」
「ああ」
 俺は正直に頷いた。
「あの人のおかげよ」
 そう言って一葉は、ちょっとだけ笑った。
「あの人がね、アタシに言ってくれたの。何もかも背負い込んでないで、吐き出してみろって。あの人はアタシの隣で、アタシの取りとめのない話を黙って聞いてくれたわ。……あの人が親父だったらな、って何度も思った」
 一葉の言うあの人、とは不倫相手の教師のことだろう。
「昔を思い出すと今でも身体が震える。怖くてどうしようもない。だから今は逃げることしか出来ないけど、それでもいいの。あの人も逃げることも必要だ、って言ってくれたしね」
 少し一葉は落ち着きを取り戻したようだった。俺はほとんど口出しもせずに一葉の話を聞いていたが、実際に一葉はそれを望んでいるのかもしれない、そう感じた。語ることで癒される傷もあるのかもしれない。
「親父がそんなだったから、アタシ基本的には男って信じてないんだ。ボーイフレンドとはただ寝るだけ。恋とか愛とか、そういうのって解らない。ボーイフレンドがたまに怖い時があるから、拒めないだけなのかもしれないし」
 俺はラークに火を点けた。薄い煙が立ち昇って、一葉はそれを目で追っていたが、ふっと息をついて表情を和らげる。
「あの人ともたまに寝るけど、それが目的じゃないの。あの人、変なの。アタシを助けたいんだって。あの人も昔、親との間になんかあったのかもね」
 俺はそこまでじっと黙って聞いていたが、この話がこの先、一葉と二葉との関係にどう発展するのか見当もつかなかった。俺はただラークを喫ってはコーヒーを飲む、という行為を繰り返していた。早く二葉とのことを聞き出して、開放されたいという気持ちもあるにはあった。だがここで焦って話の腰を折るようなことをしてしまったら、謎は謎のままで終わってしまう――そんな気もしていた。
 一葉はドリンクバーのお代わりを運んできた。今度はオレンジジュースだった。新しいストローをオレンジジュースに差し込んで、美味そうに飲んでから、一葉が再び口を開いた。また表情が硬くなっている。
「……二葉のことは、ずっと知ってたわ。二葉が知らなかっただけで。親父は今でも母さんにお金をせびってるみたいだけど、中学まではアタシも何度か親父に付いていったの。でも母さんはアタシには会ってくれなかった。――どんなきっかけだったかはもう忘れちゃったけど、二葉とは偶然会ったの。向こうはびっくりしてたみたい。でもすぐに姉妹だってわかったみたいで……ま、当たり前な話なんだけど。すぐにアタシを追いかけてきて。二人でこっそり会うようになったのは、それから」
 一葉はグラスの中の氷をストローでもてあそび始めた。俺にはそれが、一葉が話すのを面倒がっているように見えた。
「……正直言って嬉しかった。二葉はアタシにとって、たった一人の肉親で、心を許せる親友だった。毎日辛くても、二葉が優しくしてくれることで救われたの。ほんとよ。一度二葉はアタシと会ってることが母さんにばれて、ひどく叱られた、って言ってたわ。それからアタシたちは慎重に連絡を取り合って、ばれないように気を遣うようになったの。でもね、あの時、楽しい時間もあっさり壊れちゃった」
 一葉はそこで苦しげに唇を噛んだ。俺はおや? と思った。
 一葉は二葉に対して、一体どんな感情を持っているのだろうか。
 最初は、二葉のことなんでどうでもいい、そんな風にしか思えなかった。でもここまで話を聞いてきて、二葉が一葉を愛するのと同じくらいに、一葉も二葉を愛しているのではないか、そう感じた。しかし一葉は俺の想像を打ち壊すように重々しくこう言い切ったのだった。
「アタシの心は二葉に殺されたのよ――」
 腹のそこから搾り出されたかのような一葉の言葉は、俺の鼓膜に深く突き刺さった。
 俺は職業柄、いろんな人間を見てきた、という自負がある。それでもこれほどまでに憎しみのこもった眼差しを見たことはほとんどないと言ってもいいだろう。
 グラスを両手で抱え持つ一葉の僅かに俯いた顔と厳しく冷たい目つきを、俺はラークをくわえたままで呆然と見ることしかできないでいた。


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