蟹工船の底でシャネルを塗る

もう15年ほど前の話だ。

私は貧乏な大学生で、授業以外の時間をほぼバイトにあてていた。
平日は喫茶店と学習塾と居酒屋を掛け持ちし、土日は単発派遣のアルバイト。
当時は就職氷河期と呼ばれていて、たくさんの若者が定職に就けずやむなくフリーターや派遣業に就いていた。
私が所属していた大手の派遣会社もそうだった。
仕事がなくて(もしくは定職だけでは食べていけなくて)単発の仕事をしている20代の同僚がたくさんいた。

余談だが、この派遣会社は後に違法な条件で派遣を繰り返していたとニュースになり倒産する。
働いていた私も、かなりピンハネされているなとは薄々感じていた。
だが、面接や履歴書なしで「明日、仕事無いですか」と電話すればすぐに仕事があり、給与も即日手渡しだったので苦しいときはとても助かっていたのだ。

単発派遣での仕事内容は路上でのチラシ配りや工場での単純作業など。
私は拘束時間が長くて少しでもお金を稼げる工場派遣に好んで入っていた。

派遣先の工場のひとつに、派遣仲間から通称「蟹工船」と呼ばれる大きな工場があった。 
理由は待遇が悪かったからだ。
みんな嫌がったが、私は他の工場に比べて日当が千円上乗せされるし、土日だけしか働かないので、他に条件の良い派遣先が見つかるまでの3ヶ月ほど蟹工船でお世話になっていた。

実際、蟹工船での単発派遣への待遇は笑えるくらい酷かった。
通常、大きな工場などには従業員用休憩室や食堂などがあるが派遣は使用禁止。中にある自動販売機すら使わせてもらえない。
では、どこで休憩をとるかと言うと、屋外か物置のようなプレハブ小屋である。
プレハブ小屋に机や椅子はない。もちろんエアコンもない。いつ敷いたのかわからない擦り切れたカーペットが敷かれ、みんなその上で好きに座り持ってきたお弁当をとる。
晴れの日は屋外で休憩をとる人が多くまだ良かったが、雨が降るとみんなプレハブ小屋で休憩するので超満員。
出遅れると座る場所を見つけるのにも一苦労である。

そんな蟹工船のプレハブ小屋で、私は忘れられないお姉さんがいる。
お姉さんはいつもプレハブを入って左手の壁を背にして座っていた。
年齢は25歳くらいだろうか。当時の私より5歳くらい年上に見える、線が細く清楚な印象のとても綺麗な人だった。
プレハブ小屋の中で、お姉さんの行動はあまりにも目立っていた。
お姉さんはいつも10分ほどで菓子パンだけの昼食を済ませると、床にハンカチを広げ、その上にシャネルの化粧品をずらりと並べて休憩時間ギリギリまでお化粧なおしをするのだ。

初めてその光景を目にした時、当時の私は
『この人、バカなのかなぁ……』
などと大変失礼なことをつい思ってしまった。
だって、オシャレしたって見てくれる人なんか誰もいない。
いくら化粧しても服は派遣会社に強制購入させられたダサいポロシャツだ。
それに、化粧品の値段。
シャネルの化粧品などどんなに安いものでも、ひとつがこの工場での日当と同じ分くらいする。
5食入り298円の袋ラーメンを買うか、たまには贅沢して98円のカップ焼きそばを買うか迷うような私には、まったくもって理解できない行動だった。

その後も、私は休憩の度にシャネルのお姉さんを見かけた。
お姉さんはいつも誰とも話さずひとりだった。
仲良くなった他の派遣さんから聞くに、お姉さんは週5日ほどここで働いているようだった。

蟹工船への派遣が最後の日、私はどうしても気になってお姉さんの隣で休憩をとってみた。
お姉さんは私が隣に座っても、チラリともこちらを見ず鏡の中の自分を見ていた。
お化粧道具は全てシャネル。
どれも丁寧にお手入れされていて、ケースには汚れ一つなかった。いくつかの化粧品は残り少なく、ケースの底が見えていた。
薄暗いプレハブ小屋の蛍光灯の下で、きれいなハンカチの上に並べられたシャネルの化粧品たちはキラキラと輝いていた。
そこだけ世界が違う。まるで百貨店のメイクカウンターのようだった。

「綺麗ですねぇ……」
話しかけるつもりなんてなかったのに、私は思わず声が出た。
隣で体育座りをする太って野暮ったい小娘がいきなり話しかけてきたので、お姉さんはさぞ戸惑ったことだろう。
それでも小さな声でありがとうと言い、また鏡に目を向けた。
私とお姉さんが話したのは、それが最初で最後だ。

私もあれから15年、たくさんの仕事を経験した。
楽しい仕事もあれば辛い仕事もあった。
当時のシャネルのお姉さんよりずっと年上になり、ほんの少し世の中というものを知った。

今ごろあのお姉さんは何をしているのだろう。
名前も連絡先も知らないので知る術はない。
だから、きっと明るくて綺麗なシャネルの口紅がとびきり似合う場所にいると、そう信じることにした。

社会の底みたいなプレハブ小屋の片隅で、お姉さんは何を思いながらシャネルを広げていたのか。

今ならわかる気がするのだ。

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