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【居場所・ゲーム・コロナ・依存症・学校化社会】

香川のネット・ゲーム依存症対策条例案をめぐる攻防のとき、連絡をくれた高松の青年と話していて、なるほどなぁ、と思ったのが、

「僕らのようなガチでゲーム中毒の奴らって、『ゲーム依存症』じゃないんですよ。好きでやってるから。でも、あーこれが依存症なんだろうなって人はいて、ゲームを好きでやってんるじゃないし、ゲームやっても幸せじゃないですよ、あれは」
という指摘でした。(まぁ、「ゲーム中毒」ってスラングは、いささか不穏当ですが、それはさておき)

香川にも、私たちの世代でいうところの「たむろ」する場所を見つけて、カードゲームやボードゲームをやったり、対戦型ゲームの大会みたいなことを自然発生的にやってる小さなコミュニティがいくつかあって、自作パソコンに初めて挑戦する子を応援したり、動画投稿のやり方について「お前、それは危ないぞ」と注意したりといったことが、今でも続いているところでは続いているようです。

でも、街の中で、子どもや若い連中が、そういう場所を見つけるのは、たぶん25年前の私たちの世代と比べても、全国どこでも難しくなっているかもしれません。
フランチャイズ系の古本屋さんとかリサイクルショップなんかの中には、その需要をわかって部分的に業態転換をして、お店の一部を開放して、基本的に干渉しないフリースペースにしているところもあるようです。

これはもう直感的な話なんですが、「あー、この子たちは、熱中した時には1日中ゲームやっちゃうこともあるんだろうけど、『ゲーム障害』じゃないんだろうな」と感じました。

残念なことに、香川県では、こういうコミュニティが目の敵にされて、そういう「隙間」のような居場所を無くしてしまえばゲーム依存症に陥る子どもを事前に救えるみたいなことになってしまいつつあるようです。条例制定直前には、事業者さんに対して、そういう場所や機会を何とかするように、間接的な圧力みたいなことがかかり始めてしまっているという話もいくつか聞きました。
そして、このコロナの状況です。。

不登校や発達障害などの子どもと関わる活動をしている知り合いから、ここ数か月、コロナの問題と関連して、ゲーム依存症についての話を聞く機会が増えました。
ゲームをやらせなきゃいいとか、スマホやパソコンを使わせなければいいという問題ではなく、そもそもそれ以前に、孤立して無力化されて、一人でゲームでもやって人生の時間を消耗させていくしかない状況が危機的なんだという問題意識を持つ人が多いようです。

一方で、「ゲームが救いになっているんだから、それでいいじゃないか」という声が一部から聞かれることがありますが、「ゲームで救われる人」というのは、ゲーム依存症の人とは別にいて、その2つの話を一緒にしてはいけないんじゃないかなと思った次第です。

(写真は瀬戸大橋で四国へと渡っているときに撮った瀬戸内海の景色です)

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