中央線のムーディ

きっかけは、いつもの美容院に行けなかったことだった。

地元から都心の店へと移った美容師さんを、ここ半年ほど追いかけている。年のころは20代半ば(推定)、カットが上手で、全盛期の安室ちゃんリスペクトが全身から伝わってくる素敵女子・N嬢である。

コミュニケーションが不得手な人間にとって、美容院はひじょうに億劫だ。わたしの場合、髪型が気にくわないと自己肯定感はだだ下がり、コンビニの店員さんとすら、目を合わせるのが恐ろしくなってくる。だが、たとえそうなったとしても、いけ好かない美容師に切られるくらいなら、美容院になど行かない。そんな心意気で一年ほど美容院ジプシーを続けたのちに、やっとたどり着いたオアシスであった。

店が都心にあるがゆえ、休日にわざわざ地元から遠征するのは面倒で、会社帰りに行くのを常にしていた。だが、困ったことに、違いの都合がまるで合わないのだ。N嬢の休みの日にはわたしの仕事はたいてい長引いて店は閉まり、わたしの早上がりの日に、彼女は休みをとっている。永遠に終わらない花いちもんめをしてるがごとく、N嬢に髪を切ってもらえる機会が訪れないのである。

とはいえ、長い放浪生活の末にたどり着いた楽園である。N嬢に仁義を通さねば…。そんな忍耐力も、日に日にイエティ(※雪男の別称)のように生い茂っていく己の毛髪を鏡で見つづけ、ついに霧散した。なかば自棄になって、ホット●ッパービューティのホームページを開き、直感で近所の美容室の予約ボタンを押したのである。

たどり着いたのは、住宅街に不似合いな、お洒落なオープンカフェちっくな店である。恐る恐る扉を開けた途端、毛むくじゃらの小さな塊に突如アタックを食らわされた。犬(種別不明)である。やたら目と耳がでかくてハフハフしている。ちなみに、わたしは犬が大の苦手だ。犬(性別不明)は、今日穿いてきたお気に入りのスカートに前脚をかけてハフハフを繰り返している。わたしは、軽いめまいを覚えた。

遅れて、店主らしき男性が、いらっしゃいませとにこやかに微笑んだ。ムーディ勝●似である。

ムーディは、スカートにまつわりつく犬にはとくに言及せず、正面の長机にわたしを導いた。店内を見渡したところ、わたしとムーディと犬以外の姿は見当たらない。一抹の不安が脳裏をよぎる。しかしながら、よくわからんがたぶんこのまま店にいたほうが面白いことが起こりそうだぜ、という己の直感を信じて、わたしはすすめられるまま、なぜかムーディと横並びで机についた。

「今日はどんなスタイルをご所望で?」

正確なところは定かではないが、限りなくそれにちかいような意味合いの言葉を、ムーディが発した。ふいに、白スーツに蝶ネクタイのムーディ●山が、00年代初頭の月9に出てきそうなカリスマ美容師ぶったセリフを吐く映像(マイクあり)が頭のなかを駆け抜けた。ゆるみそうになる口元を必死に引き締め、わたしはつとめて冷静に「現状維持で」と自分の希望を伝えた。

だが、ムーディはご不満だったらしい。

「ふだん、どんな雑誌を読まれますか?」「どういうスタイルが多いですか? たとえば、今日は、上下に花柄をあしらった服をお召しですが…」

早よ切ってもらって早よ帰りたいという雰囲気を全身から漂わせまくるわたしをよそに、ムーディは、日ごろのわたしのライフスタイルからなりたい髪型を探るという、美容師としてパーフェクトすぎる応対をしてくれた。だが、こちとら美容院は完全なるアウェイである。

「雑誌とか読まないですね。あ、『暮らしの手帖』は好きです」「スカートしか持ってないです。そういわれたら、今日花柄か。というか、花柄の服しか持ってないかも」

わたしの答えを聞くたびに、ムーディの表情はみるみる曇ってくる。それと反比例して、わたしの頭のなかのムーディ●山は、哀愁漂よう、あのメロディを高々と歌い上げた。やめろ、と我が脳みそに懇願する。

ふいに机の上に開かれたヘアカタログが視界に入ったので、 こんなかんじがいいですと指差してみる。それはあなたには似合いませんよと、ムーディはいままでの優しさが感じられない声できっぱりと言い放った。万事休すである。

脳内ムーディの歌声はますます冴え渡り、スカートとたわむれることに飽きた犬は、店内に置かれた犬用ベッドで眠りに就いている。

困り果てて窓の外の夜空を見上げると、切り落とした爪のような、ほそい三日月が浮かんでいた。


結果からいえば、ムーディは、いままでお世話になった美容師さんのなかで、いちばんといってもいいくらい腕がよかった。なおかつ、ムーディが子供のころ、長すぎる睫毛を友人にからかわれるのが嫌で、みずからハサミで切ってしまったというハートフルなエピソードも聞くことができ、髪を切り終わるころには、ムーディ勝●が千葉●大に見えてきている自分がいた。

髪を切っているあいだ、こちらを見向きもしなかった犬が、お会計のとき、エサ目当てに全力でわたしの膝に乗ってきた。スカート、ぐちゃぐちゃやがな。だがそれすらも、愛い奴と思ってしまう。

おそらく、鏡に映った自分の髪が予想外にサラサラだったことで、自己肯定感の値が高騰したのであろう。そういえば、美容院に行ったあとに出会った人には、優しい気持ちで接することができるのを思い出す。

ハサミひとつで、ここまで人心を操るムーディ、恐るべし。

鼻歌をうたいながら自転車を走らせる帰り道、次回も彼の人にお世話になろうと固く誓ったのだった。

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