コロナとハクウンボクと私

ここ数ヶ月、ネットを見れば、コロナ関連のネガティブニュース&巣ごもり続きで(在宅仕事okなのは助かる)、盛大にメンタルがやられた。
同居人もなく、この東京砂漠にアラサー(四捨五入してギリ)女子ひとり。


最悪、自分ひとりが部屋でコロナで野垂れ死ぬのは致し方ないが、他人様に感染させるなど、人に迷惑をかける所業は躊躇われる。


部屋の片付け&模様替えと銘打って、軽めに身辺整理などをしつつ、なぜ私の住む区は10万円の支給申請がはよ始まらんのだろうかとか、家にずっといるだけなのになぜか食欲が増して太ったなぁとか、コロナきっかけで、長年のつき合いがあった人の人間としてものすごく嫌な部分に気づいてしまったなぁとか、もやもや考えてたら鬱っぽくなった。


このままでは心身共にヤバいと感じて、人のいない時間帯に(ちょうど黎明ぐらい)、週に数回数十分ほど、近所の公園に散歩に行くことに決める。


都内にしては広い緑の多い公園で、大きな池が2つある。
ぐるりとゆっくりめの歩調で一周して歩くと、30分ほど。
カルガモの親子や、白鳥のようなフォルムの黒い鳥や、カワセミ、サギ、カミツキガメ(未確認)などがいる。


世間ではゴールデンウィークだ。
五月のなにがいいかといえば、萌ゆる緑が美しいところ。
いろいろな木が、公園内にはある。目に映るそれらは、すべて緑だが、それらがひとつひとつ、違っていることに気づく。


手元の大辞泉によれば、緑さす、というのは、初夏の木々の新葉の緑のみずみずしい様を表す言葉らしい。
深い緑に変わる前の鮮やかな明るい緑で、目の覚めるような溌剌とした情景。
本当にそんな感じ。目が、肌が、細胞が、ひたすら喜ぶ。心身に深く広く染みこんでくるようなグリーンの大群。


ああ、人間は土と離れては生きてはいけないっていうのは本当だよな、とジブリの某作品の名台詞を思い出しながら、園内を歩いていた。


ひときわ大きな幹の木を見つけ、見上げてみる。幹は白っぽい。日が昇り、木が眠りから覚めて、木の葉がさわさわと揺れる。葉の色は黄緑だ。
「それ、なんの木かわかる?」
ふいに、やや離れた場所から声が聞こえた。声のしたほうに視線をやると、ジャージを着たおじいさんが体操をしている。
ほかに人の姿は見当たらないので、私に聞いているらしい。
もう一度、木を見上げてみる。モミジのような、見たことがある葉の形をしているがちょっと違う。
「わからないです」
正直に答えた。
「カエデだよ」
なぜか嬉しそうに、おじいさんは言った。
「葉っぱの形がカエルの手みたいでしょ。ちなみに、モミジの仲間で、種がプロペラみたいな形をしてる」
なるほど、たしかに、色も形もカエルみたいだ。おじいさんにつられたせいか、私も少し嬉しくなってものすごく納得してしまう。
ソーシャルディスタンス(2メートル)を保ちつつ、話しかけてくださるおじいさんの配慮に素晴らしいな、と感激したせいもある。
「あっちの木は、幹が似てるけど、じつは違う。メタセコイアって言うの。どっちも落葉樹だよ」
葉っぱ全体の形がクリスマスツリーっぽい木を指して、おじいさんが笑う。
相変わらず、体操はしたままである。でも、不思議とおざなりにされてるような嫌な感じはしなかった。
「この池を挟んで、ちょうど向かい側あたりにある、ハクウンボクの花がいくつか咲いてたから見に行ってみたら? バターカップみたいな形の花」
「ハクウンボク…」
「白い雲の木って書くの。満開になると、雲がわあーって広がってるみたいで綺麗だよ」
地上の木に雲が咲く。
その光景を想像したら、ものすごく魅力的に思えて、見に行くことにした。


池の周りをぐるりとまわりながら、ハクウンボクの木を探す。目印は、土の道とアスファルトの道が交わるあたり。バターカップみたいな形の白い花(ところで、バターカップってなんだろう)。


てくてく15分くらい歩いて、見つけた。ずいぶん大きな木である。10メートルはあるだろうか。下から見上げると、地面から葉までの距離がずいぶんとあった。
葉の間に、ほんのいくつか白い花が咲いていた。スズランの花をもうちょっと大きくして、ひらべったくしたような形だった。それがいくつかの房になって、緑の間でさわさわと揺れている。


ああ、たしかに、この木が白い花でいっぱいになって、雲みたいになったときの光景を見たいなと思った。
見上げて、その群れの数や、香りや、あるいは風に揺られてささやかに奏でられるであろう音に圧倒されたい。
人は自然にはかなわないんだな、という圧倒的事実を突きつけられて、潔く降参したい。


いまの時代、人間が攻略できないものって、何があるだろうなとふと思う。
自然、天災、あとは、今回のコロナのような治療法の確立できていない未知の病気。
そういったものに対峙するたびに、人はどうにか勝ってやろうと方法を探ってきたんだと思う。
そのやり方を知らないことに、恐怖を覚えるのだ。
けれど、勝てないものには勝てない。無理なものは無理。
そう堂々と認めることによって、気持ちが楽になる部分というのも、あるのではないのだろうかとも思う。


諦める、開き直る、こだわりを手放す。
もちろん、人に迷惑をかけず、自分のできる範囲で。


ある程度、それらができて、自分自身をコントロールできるようになったら、
このもやもやっとした気持ちも、すっきりしない頭も、五月の緑のように冴えてはくれないだろうか。
人のいない、夜の明けたばかりの朝の空気。そのなかで、しんと静かにそこに在る木のように、ゆるぎなく、まっすぐ背を伸ばして立っていられたら、と思う。
なにか嫌な気持ちに襲われそうになったら、この緑の感じを思い浮かべよう。


とはいえ、当分、状況は変わらないだろうから、ステイホームは続きそうだ。
家の中でも、あるいは週に何回かの短時間の外出でも、ほかに気持ちが晴れること、自分にできることを探してみようと思う。
とりあえずひとつ、満開のハクウンボクの花の下で、真っ白な雲を見上げるという楽しみができた。


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