5度目のJ2降格に伴い、来し方を整理してみた
1.はじめに
こんにちは。oggi_1979と申します。生まれと育ちは札幌、進学を機に京都に住処を移し、気づけばそのまま就職して京都の人となり25年が経過しました。noteに記事を書くのは、今年7月の「#私がコンサドーレを応援する理由」以来2度目となります。せっかくnoteに登録したのだから、と思い切って「北海道コンサドーレ札幌 Advent Calendar 2024」にも参加してみました。
2.J2で戦うということと、J1にいることのありがたさと。
さて皆さんご存知の通り、2025年に我々北海道コンサドーレ札幌が戦う舞台は、J2に変更となります。2016年最終節のツエーゲン金沢戦で、各所で非常に物議を醸す試合内容ながらも勝ち点1を積み上げ、J2に別れを告げてはや幾年。気づけば2017年から2024年にかけての8シーズンをJ1で過ごしました。
こんなことをいうと昨今はすぐさま「老害」という単語が飛び交う昨今であることを承知の上で書きますが、『コンサドーレがJ1でいることの幸福さ・ありがたさは絶対に忘れちゃいけないよね』と切に思います。だって、J2からJ1への昇格を、あんなに切望していたあの日々を、決して忘れることはできないから。J1からJ2に降格したときの悔しさ、情けなさ、出ていく選手の背中を見送る事しかできない虚しさは、決して消えるものではないから。通算5回目のJ2暮らしを振り返るのは、決して楽しい思い出ではないですが、その一部だけ、今回少し振り返ってみたいと思います。
3.1998年12月5日
既に過日、Shyakaさんが書かれているように、「1998の悲劇」がありました。内容が一部重複して大変申し訳ありませんが、以下、少しだけ自分の記憶の整理も含め、書かせていただきたいと思います。
1998年のチームと私
18チーム中14位と、前年のJFLを席巻したバルデス・マラドーナの攻撃力も相まって、クラブ創立3年目とは思えないほどの健闘を見せたこの年のコンサドーレ。個人的には、クラブの歴史の中でも1.2を争うくらい好きなチームでした。4試合あって、1試合でも勝てばOKという圧倒的に有利なレギュレーションのもと、ズルズルと敗北を重ね、日本サッカー界史上初のJ2降格チームとなったのも、コンサドーレ。
ちなみにこの年、私は浪人生でした。今は無き西11丁目駅の札幌予備学院大通校に通い、何とか1浪で済むように(わりと)勉強に励んでいたつもりでしたが、予備校からの帰路に寄った丸井今井のコンサドーレショップ(当時はまだ本館の別館?的な立地で、大通公園に面していた)でゲットした入れ替え戦の情報は、日々惨憺たるものでした。「今日も勝てなかったのか」「リーグ戦では神戸に勝ってたじゃないか」自分の中で勝手に焦り始めた私は、北海道新聞に掲載されたバスツアーの告知を見つけます。
室蘭の記憶
「行くしかないだろう…!」 今となっては親にどう言って家を出たのかも覚えてませんが、とにかく友人と2人、気づけば室蘭行きのバスに乗っていました。独特な高揚感を抱いていたのは覚えていますが、不思議なことに、道中の記憶は全くありません。肝心の試合の記憶も、アビスパのフェルナンド(本当にいいボランチだったな)が放ったシュートが、ディドが全く反応できない位置に飛んでネットを揺らしたこと。「九州独立」と書かれた横断幕の上で少数精鋭のアビスパサポーターが乱舞していたこと。帰りの白鳥大橋がキレイだったことくらいしか覚えていません。こうして、「ようやく勝ち取ったJリーグの舞台も、こんなにあっけなく手放さなくてはならないんだ」という無常感を知り、「降格したら主力は移籍してしまうんだ」という今では当たり前の喪失感を初めて味わい、「まあJリーグで最下位じゃなかったんだから、翌年はじまるJ2なんか余裕で制覇できるでしょ」という思い上がりすらも、完膚なきまでに叩きのめされる現実の厳しさを知ったのでした。
4.幾度かの降格を経て
このように自身にとって非常に驚きのあった1998年の降格劇でしたが、ここにはイレギュラーな要素(Jリーグの定めた謎ルール)があったため、純粋にクラブの力量が足りずに降格した、ということではありませんでした。いっぽうでその後は周知の通り、私たちにはボロボロになってJ1の舞台から去らざるを得なかった、苦い苦い記憶があります。各年度について書きだすとそれこそキリが無いため、以下に列挙します。
5.2025年、捲土重来なるか!
さて、来期こそは捲土重来を期すべく、岩政監督のもとで1年での早期復帰を願うわけです。ただ、降格したシーズンこそ脳裏に強烈な記憶がこびりついているものの、翌シーズンってそこまでクリアに覚えていなくないですか?私だけかもしれないですが。というわけで、記憶を呼び起こすべく、降格翌年のコンサドーレについても振り返ってみようと思います。
こうしてみるとジョアンカルロスでやらかしちまった2003年以外はそこまで大崩れしていないものの、爆発的に勝ちの時期があった記憶が無いですね。さて、以下にそれぞれのシーズンを、少しずつですが振り返ってみましょう。
1999年
J2初年度の1999年は岡田武史監督が率いたことで特大のインパクトをJ2にもたらしました。ただ毎試合一進一退で、大分や山形がとにかく粘っこかった印象。FC東京のカウンターも脅威だったのと、吉原宏太の目覚ましい活躍を誇らしく思った年でした(コパアメリカでの代表選出と五輪予選!)。年間通じて活躍した外国人選手がアシス一人というのもしんどかった。バルデスの#9を受け継いだリカルジーニョは「俺はロナウドよりも上手い」と選手名鑑でのたまったにも拘らず5試合1得点。#8のクレーベルに至っては何者だったんだ。と、今でも実家に帰ったときは弟と、この外国人ガチャの失敗を酒のツマミにして飲んだりしています。
2003年
闘将柱谷哲二の蹉跌を経て、Jリーグでの経験も豊富なジョアンカルロスを招聘し、捲土重来を誓ったシーズンでした。もっとも、前年に攻撃の主軸として活躍した小倉隆史が、かつてのジョアンとの確執によりオフに退団するなど順風満帆な船出とはいきませんでした。それでも相川・新居の若手ツートップに希望を見出し、山瀬は移籍したものの今野・藤ヶ谷と世代別代表にも選出されるほどの実力者が残留。そしておかえりなさいのウィルに加え、ホベルッチ・ベットとブラジルから期待度大の外国人選手が加入、ということで陣容だけ見ればJ1だった2002年よりもワクワク感の強いチームでした。ただ、蓋を開けてみればディシプリンは皆無で、当時新潟の監督だった反町さんに「札幌はギャンブルサッカー」とこき下ろされる始末。私も京都から、下道で12時間ほどかけてレンタカーで新潟に行きました。その試合で1-5と完膚なきまでに敗れジョアンは解任。とことんトホホな印象の2003年でした。あ、函館にも福岡戦見に行ったな。
2009年
石崎さん初年度の2009年はなかなか勝ちきれないイメージがあったけど、21勝もしていたのに驚きです。とにかく試合数が多かったのと、上里、岡本、宮澤といった選手が伸び盛りであったことに加え、ダニルソンやクライトン、キリノといった外国人選手も融合し、戦力補強の面でも頑張っていた印象があります。それだけにこの年に昇格しておきたかった!(のちに2010年、2011年と財政問題が暗い影を落とす…)個人的には初めて赴いたアウェイ熊本戦で、チョソンファンのバックパスがGK荒谷をすり抜けて失点したシーンが脳裏に焼き付いて離れません。0-4で負けたし。熊本空港で遭遇したダニルソンとクライトンの強面ぶりも忘れられない記憶の一コマ。
2013
2013年はユース出身者の積極登用が特徴的な超緊縮体制ながらも8位。正直2004年の二の舞も覚悟していた中で、嬉しい誤算でした。フェホ、レコンビンといった個性的なアタッカーを擁して何とかプレイオフ目前までいったものの、最終節の北九州戦でジエンド。個人的には娘が生まれた年で、このシーズンからスタジアムでの観戦は年に数回の特別な出来事と変容していくのでした。
降格翌年を振り返ってみて
降格した翌年、いずれのシーズンも1年でのJ1復帰は叶いませんでした。今回も監督交代に加え、相当数のメンバーの入れ替えを覚悟しておく必要があるでしょう。過年度の実績に鑑みると、圧倒的なスタートダッシュは(おそらく)望めないかもしれません。それでもなお、私たちサポーターくらいは、前を向いて赤黒の戦士たちを応援しようじゃありませんか。まだ何も始まっていないのですから。