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「気づくこと」と「赦すこと(受け止めること)」

自分のメンタルやフィジカルの状態に気づいたり、自分が囚われている考え方(「中核信念」と言います)に気づきやすい、ということはとても大事なことです。気づくことで客観的になり、冷静になれる。

マインドフルネスはこの気づくトレーニングをしています。

一方で、この「気づき」が監視的になっていると良くなかったりします。「あー、また自分はネガティブになっていた。駄目だな」「なんでいつもこんななんだよ」
これは同じ気付きでもすごくネガティブに作用しうる。

Awarefyの中で行う「感情メモ」という、コラム法と呼ばれる手法をベースにした気づきのトレーニングがあるんですけど、そこでネガティブな感情ばっかり拾ってしまうことが逆にしんどくなる、みたいな現象が結構あるんですよね。

これはもしかすると監視的な要素に近いかもしれません。自分はネガティブばっかりだ!と。

そこで、90度ベクトルが異なる「そのまま受け止める」という概念が大事になってきます。これはコンパッションと言ってもよいかと思います。
自分がネガティブになっていたり、焦っていたり、イライラしている、ということを気づいて観察した上で、それをそのまま受け止めてあげる、認めてあげることで、許され、前にすすめるようになるんですよね。よしよしいい子だね。分かるよ。そうだよね、しんどいよね。ちょっと寝たらいいんじゃない。大丈夫、何があっても味方だよ。

赦し。

レミゼでも、ジャン・バルジャンは司祭の赦しを得たことで、自分を認め、世界を認め、前に進むことができたわけです。だから何度見てもあの司祭の赦しに僕は心打たれるんです。司祭になりたい。自分の食器を盗んだ人に、燭台も差し出したい。

アウェアネスとコンパッション。気づきと赦し。

それらを抽象化すると、最終的には「愛」に行き着いてしまいます。
結局僕らは、宗教の世界が深ぼって来たことを、科学的に追体験しているのかもしれません。

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