ぺぺ長谷川(塚原活)を悼む

2/18、2/19国立谷保「かけこみ亭」及び「きしゃぽっぽ公園」でのぺぺ長谷川(塚原活)のお別れ会、そして2/20堀之内斎場での火葬に参列してきた。
神長クン、イカさん、原島さんはじめ 運営の皆さん、本当にお疲れ様です。ありがとう。
おかげさまで、素晴らしく原則的な見送りができました。

2/18。ベース&スロヴァキア史研究の井出匠、トランぺッターの佐藤信吾・加藤直喜と現地へ。
「きしゃぽっぽ公園」でピアニストの小林創、板橋区の千種クン、藤井謙一郎・京子夫妻、子午線の春日社長、大森孝参弁護士、海女研究の小暮修三、白水出版センターの小野信也クンなど今も日常的に会い共闘している面々+懐かしい面々が車座になり献杯。
小林・井出・佐藤・加藤・春日・小野クン以外とはほぼ20年ぶりだ。塚原とは早大黒ヘルノンセクトグループとブルース軍団という音楽サークルの両方で一緒だった。
恥ずべき差別主義者・極右評論家の萱野稔人を陣営から生み出してしまった総括など有意義な討議が展開できたが、やはり同窓会的な微温的なもので終わってしまったのが課題。

途中で悪い意味でのKY人士(ちなみに私は「空気を読んで意図的にそれを破壊する人士」には肯定的だが、最初から空気を読めない人士へのケアは任ではないと放棄している。そういう人士に対するケアも塚原は粘り強くやっていた。俺にはできない)乱入して水を差された(「排除しない」体の排除をテーゼとするだめ連組織論のジレンマ。だめ連交流拠点であった「あかね」が問題ある人間によって簒奪され、ぺぺ長谷川含め「だめ連」の良質部分が排除されてしまっている現状を見るとそこは見直す必要があると思う)が、塚原の亡骸の前で歌を歌えたことはよかった。神長くんの〆のアピールとシュプレヒコール。

2/19、埼玉県立浦和西高校1年8組で塚原と一緒だった安田マッスル善貴はじめとする西高同窓会軍団8名と一緒に行こうと思ったが、電車遅延等でうまくいかず。結局安田以下西高同窓会軍団先行。
井土紀州組から太陽肛門工房/レフトサイドレコードに合流した遠藤晶クン・野崎芳史と現地へ。劇団木霊からNHKの中川丈士クンなど懐かしい面々と交流。
おから会のことを知っていた方と偶然話すことができ、感動。
しかも彼女が、既成左翼の硬直化した姿勢に絶望していたときに、塚原がそれを励ますために(運動はゼロからでもできるの意)おから会のことを引用してくれたと聞き、涙。

おから会は、私がまだ某新左翼党派にオルグされる前の左翼でもなんでもない高校生のとき、埼玉県立熊谷高校の同級生3名及び上尾市立瓦葺中学の同級生で浦和西高校1年8組に合流した某の4名で結成した会だ。
目的と綱領はただ単に交流を促進し、熱く討議しよう!というものだった。アンチラブコメが合言葉だ。
おから会が後の「交流家」ぺぺ長谷川に決定的な影響を与えていたことを知り、心を打たれる。

塚原と出会ったのは、私が埼玉県立熊谷高校1年、塚原が埼玉県立浦和西高校1年のとき、私が卒業した上尾市立瓦葺中学校から浦和西高校1年8組に進んだ某(おから会浦和西高校支部長)による某宅で開かれた「お泊り交流会」の席だった。維新の志士では誰派?という話題で俺は西郷派で塚原は高杉派だったのを良く覚えている。

おから会の会合や熊高社研主催の集会に塚原は参加していたが、軟式テニス部の仲間への大胆なオルグは出来なかった。
人間関係を場面毎に峻別する傾向が彼にはあり、それをよく批判したのを覚えている。
それが彼の交流家としての面としての広がりを担保していたのも事実ではあるが、その傾向は最後まで変わらなかったと思う。

2/20、堀之内斎場にて安田と骨を拾った。神長くんの原則的な〆のアピールに感動、力をもらう。
帰途、元気な生き生きとした保育園児たちと交流。ホッとする。
たまに、収容所の囚人のような保育園児見かけるが、あれは何なのだろうか?そのあたりのことを安田と語りあいながら徒歩にて高円寺駅に向かう。
二年前、ネブラスカのしんさんとお別れした後、塚原・安田・花咲の三人で献杯した中華成都に向かうも月曜定休。
ニューバーグで食事した後、安田は寄居へ。

ぺぺのいない高円寺をひとりで歩く。
肉のいしだでメンチとコロッケ、豚小間を100g。豊島屋で鳥ももを一枚、レバーを一本。おっさんと会話。
「だいぶ久しぶりだな。もっと来てくれないと、(つぶれてしまったセイフーのように)この店もヤバいぞ」「それは困るんで頻繁に来ます!」
ヒロセのオヤジの顔をおがんでからサテン。

ぺぺに会いたいとき、電話も何もせず高円寺駅北口広場に行けば、65%くらいの確率で会えたものだが、もう会えないのか。さびしい。
神戸の尾原宏之クン、名古屋の寿屋音(ラスタ庵長)と長電話。ペペまわりのこと。
竹内クンに電話、お骨のこと、お母さんの葬儀のこと、親戚まわりのことなど。

浪人時代は塚原達と英語でドイツイデオロギーを読んで討議する会をやっていたので、最低週一回は会って飲んでいたと思う。確か合宿もやった。
早稲田大学の黒ヘルノンセクトグループに入ってからは、色々な戦線で共に闘った。ムスケル、会議、情宣、デモ、抗議行動。連日連夜の飲酒。
ほぼ毎日一緒にいたと思う。塚原とは早大ブルース軍団でも一緒だったので、更に激しく生活を共にしていた。

ブルース軍団の合宿では、全裸で泥だらけで相撲を取ったり、「ブル軍すごろく」をやったりバンカラ的な面白い行事をやった。楽しかった。
毎日が合宿のようなものだったが、あいつはやっぱりギャグセンスが抜群だし、全てを面白く采配することができた。
場を白けさせる、悪い意味で「リベラル」な自意識過剰なやつを擁護するようなことはしなかった。

塚原がやっていたJames Brownのコピーバンドは絶品だった。(塚原vocal,小林創ドラム、佐相凡トランペット ほかのメンバーは思い出せない)
私が小林創や泉邦宏と、太陽肛門スパパーン結成以前にやっていた8管編成のジャンプブルースのバンドの吉祥寺曼荼羅のライブで全裸で縛られ鞭うたれろうそくを垂らされるパフォーマンスをやってもらったこともある。
太陽肛門スパパーンのライブにも一度だけ客演してもらった。

塚原がひょうろくや究極さんとやっていた「男女間の友情」は、ポストパンクの歴史に残る素晴らしいバンドだと今も強く思っている。

彼の祖父が、猪俣津南雄・青野季吉との親交でも知られる佐渡中学/早稲田人脈に連なる俳人・塚原徹であることは著名な事実だが、お父さんの塚原昭二郎さんも知的に飄々とし越後人としていい意味の「だめ」フレーバー(「越後には杉と男は育たない!」)のある好人物であった。
お母さんのよう子さんはしっかりした女丈夫という風情で、看護師として塚原家の財政を支えていた。(80代のときもファド歌手としての活動を継続)
お父さんもお母さんもしっかりとした左翼だったので、両親ノンポリの俺はちょっとうらやましかった。
妹さんのせっちゃんは和光大学に進んでビックバンドジャズのサークルに所属する一方で反原発運動を熱心に展開していた。
知的障碍児へのボランティア活動中の海難事故でせっちゃんが金沢の海で亡くなったときの葬式。
もう一人死んだ金沢大学生の親が、運動のリーダーのおっさんに「お前のせいだ!」的に絡んできたとき、毅然たる態度で諫めたお父さんお母さんの堂々たる態度に感動した。

俺のオヤジの葬式にも来てくれた。家族問題でちょっと悩んでいるとき、塚原のお母さんに電話で相談したこともある。

塚原は人脈のハブ、交流の結節点に常にいた。
長年活動を続けていれば、殺したいやつの一人や二人はいるものだが、何十年に一回どうしても連絡をとらなくてはならないこともある。
塚原に電話すれば、必ず今何をしていて連絡先はどこかがわかった。

2020年5月24日、幾何学模様のギター、ラッパーのMCbkdnと初めて面会した日のこと。映画監督の楫野裕と待ち合わせ場所である高円寺福龍門に向かう路上で例のごとく塚原と遭遇した。
一緒に飲んだ。異様に顔色が黒いのが気になったので、別れ際 必ず医者に行くように提起した。
それから一週間ほどして塚原に電話してみて癌罹患を知る。

40万程カンパを集め、標準治療・手術を強くすすめる書き込みが並んだ寄せ書きを手交した。そのオルグに失敗したことは今でも後悔している。

最近は太陽肛門スパパーンのすべてのライブに来てくれていた。打ち上げも皆勤賞だった。
情況のロングインタビューで、俺の影響を強く受けたことを話していたことを知り嬉しく誇らしく思っていた。

ぺぺとの40年間は楽しかった。
これから、ぺぺのいない世界、ぺぺのいない高円寺で生きていかなくてはならないのか。
さみしい。

「だめ連魂」という言葉がある。例えば、知らない人だらけの飲み会に出席するときや、「お呼びでない」系の場に交流を持ち込まなくてはならないとき。
怖気づき日和ろうとするとき、「だめ連魂」を思い出せ!と勇気を奮い立たせる。
ぺぺや神長が、知らない人のみで形成されるバンドや劇団や舞踏集団を見に行った後、あくなき交流(身内レベルの二次会、三次会までついていく)を求める姿勢に打たれ、見習おうと決意した瞬間がある。
ある集団に、だめ連排除の動き(またあいつら来るのかよ、まいちゃおうぜ)があり、打ち上げ場所を教えない、まかれる逃げられるという事態に至っても執拗な調査活動により飲み会場所を探し出し、交流に奮起するぺぺと神長の姿を見たとき、深い感動を覚えた経験が俺にとっては決定的だった。

「だめ連」のコンセプトの正しさ、画期性を思う。
ハク、ウダツ、性をどうするか。
性に関しての「男女間の友情とオナ」というコンセプト。(今から振り返るとやはり「男女間の友情とセックス」でなくてはいけなかったと思う)
後のシェアハウスムーブメントのようなぬるい「楽な」交流ではなく、お互い詰めまくる相互批判・相互変革的な厳しく辛く「楽しい」交流の追求。
運動体に潜むエリーティズム(生産力主義)と資本制社会との密通関係への鋭い批判。
リベラルニューファミリー系左翼に対する鋭い批判(「リベラル」では「ネオリベ」は批判できない)。
だめ連フォロワーのネオリベ高円寺軍団への批判(そこが不徹底だったのが否定的総括になってくると思う)。

資本制社会(特にポストフォーディズム期においては)では、「自立」は不可能であること、「自立」しようとした瞬間に資本の罠に取り込まれ転向堕落が準備されること。
どのように誰に寄生するか、という問題を先鋭化させるしかないこと。

ぺぺの残した交流の軌跡と人脈を賦活しながら、ウクライナ戦争終結!戦争反対!岸田政権による軍事費拡大/原発推進阻止!差別撤廃!資本制社会廃絶!そしてだめ連の結成当時の機関紙名でもある「にんげんかいほう」を勝ち取っていかなければならない。

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