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心の島 小笠原‐21 他人の祭り

昨日と今日、今住んでいる海辺の街の神社で例大祭が行われ、つい先程も家の前を山車と神輿が通り過ぎていった。思えば、かつて白金、三田、横浜に住んでいたときも、それなりに町内会が機能していたので神輿や山車が家の前を通っていったように思う。それをいつも私は家の窓から見ていた。小笠原に住んでいたときも、秋祭りがあって、それを傍観していた。秋祭りは、どこにいても自分がその場に根ざしていない漂流者であることを感じさせる気がする。


小笠原との関わりは30年以上になる。
取材で、個人の旅で、もう何十回行ったかわからない。コロナ禍の3年を除いて行かなかった年はないし、一時期は住んでもいた。その間に見たり、感じたりしたことを1つずつまとめていってもいいかなと思い、書き始めた。本当の雑記だが、興味あったら幸いです。


(注)今日はなんだか内面的な話になってしまった。痛いわ〜と思ったら読み飛ばしてください。

写真は2009年、母島の月が丘神社の例大祭の様子。青年会にも入ってないし、子どももいないし、いつもいろいろ誘ってくれる人たちはみんななんらかの役についていて忙しいか、あるいは仕事だったりして、一緒に行く人もいなかった。
さてどうしようかなと思った。多分、住民としてお祭りに参加するのはこれが最初で最後だろうから、やっぱり写真を撮りに行こうと理由をつけて、カメラを持って表に出た。

もちろん、バイトなんかで一時的に島に来ている人でも、サラッとこういう輪に入っていて、なんなら中心になって活躍する、今で言う陽キャな人もたくさんいるけど、やっぱり私はどっちかというと陰キャなんだろう、あらゆる輪の中に入って、自分なりの立ち位置を獲得するまで1年ぐらいかかる。自分から「私はこの役やりますから!」とかずんずん入っていけない。まあ、ぼっち体質なんです。

で、この日も愛用のカメラ片手にあちこち走り回って写真を撮っていた。小さい子たちも法被を着てて、それはそれは可愛かった。その時の写真を見ていると、もう島にいない子もたくさんいることに気づく。
(当時の日記を見返すと、夜の神社での芸能奉納では、太鼓の集まりがヒップホップを踊るという出し物が予定されていたので、太鼓を習っていた私もそれに出たと書いてある。一人だけリズムがズレていて一緒に飲んでいた人たちにまたなんやかんやいわれたという記述があった)。

450人の島では一時的居住者の私でも顔見知りなので、みんなあれこれ声をかけてくれたり、写真を撮らせてもらったりして、当時の写真を見ると、今はもう高校生になった子どもたちの幼い笑顔がたくさん残っている。写真はすごい。その時交わした会話も少し思い出した。子どもが初宮参りだったという夫婦は今は父島に住んでいる。

行き交う人と話しながら、やっぱりこの祭りは「他人の祭り」なんだなぁと思っていた。父は私が4歳のときに亡くなったが、銀行員だったので転勤族だったし、その後も港区の中を転々として、一人暮らしになってからは縁もゆかりもない横浜に住んでいた。

父方母方双方ともの親戚とも縁が薄く、夏休みには田舎のおじいちゃんおばあちゃんちに……ということもなかったし、そもそも田舎がなかった。
祭りって地域への帰属意識がいちばん高まる催しな気がする。それを持ってないということは、なんかあったときに「あそこに帰ればなんとかなるだろ」という場所がない人間ということでもあると思う。


常に漂流して生きている自由さを享受している一方で、ときおり、家族もいない根無し草であることを意識することがある。祭りって、いつも私にそういうことを思い出させるイベントなのだった。

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