見出し画像

心の島 小笠原‐6 「硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ」 酒井聡平 著を読んで

小笠原との関わりは30年以上になる。
取材で、個人の旅で、もう何十回行ったかわからない。コロナ禍の3年を除いて行かなかった年はないし、一時期は住んでもいた。その間に見たり、感じたりしたことを1つずつまとめていってもいいかなと思い、書き始めた。本当の雑記だが、興味あったら幸いです。


これほど引き込まれて読んだ本は久しぶり

久しぶりに読み始めたら、次のページをめくる手が止まらない、読まずにいられない本だった。
硫黄島についてはほとんど知識がなかった。元・水産センターの所長、倉田洋二さんが編まれた『寫眞帳 小笠原 発見から戦前まで』(アボック社)で、戦前の硫黄島に暮らす人々や島の写真を見たことや、島のどなたかに頂いた、『硫黄島遺骨収集記録誌 平成十一年三月』(小笠原村)で、その壮絶な地上戦の様子や遺骨収集団の活動を知ったぐらいで、あとは映画『硫黄島からの手紙』、小説『硫黄島Iwojima』(黒川創)で見たり読んだりしたぐらいだと思う。
私が硫黄島に対して抱いていた感情は、ある意味作られたものなのだと、本書を読んで知った。悲惨な戦場の島、悲劇の島……。でも戦前は約1000人の人が暮らし、農漁業を営んでいたのだ……。

えっ、と驚く記述の連続

著者の酒井聡平氏は北海道新聞の記者で、たまたま地域の行事で知り合った三浦さんという方が父を硫黄島で亡くしており、何度も遺骨収集に参加しているということを知り、自身の祖父も兵士として父島や母島に配属されていたこともあって、硫黄島の取材にのめり込んでいく。
地方紙の記者が硫黄島のことばかり書くわけにはいかないので、業務外の時間をも使って、あらゆる第一次資料を読み込み、関係者に聞き取りを繰り返し、自身も遺骨収集団にも関係団体に働きかけ遺骨収集に参加(遺骨収集に参加できるのは遺族が中心なので)、まさに執念ともいえる取材を重ねてきた。とにかく、年々薄れていく戦争の記憶や、硫黄島だけではなく異国の地で今も帰国できないままになっている戦没者の遺骨があるという事実を少しでも多くの人に伝えたいという思いでのことだったそうだ。

読み進めていて、「えっ!」と声が出た箇所がいくつもあった。1つは、1968年に小笠原が日本に返還されたとき、硫黄島および小笠原が米国の核の貯蔵庫となることが米日の間で「あいまいに」約されていたことだ。
実は、「昔、小笠原には米軍の核兵器があった」という話を、島の人に聞いた記憶があったからだ。飲みの席での噂話と思っていたけど、あれは本当だったのだ(現在は核の配備はないらしい)。

それから、遺骨収集がなぜ年数回しか行われないのか、また、関係者以外の参加はできないのかという点。小笠原村では、中学生になると島民墓参で硫黄島に行く機会がある。また、在住年数によって、墓参に参加するチャンスもある(抽選だったと思う)。いずれにしても島に住んでいなければ墓参には参加できないし、一般の人が参加することはまず不可能。この理由を、物見遊山で参加するようなことがあってはいけない、英霊に失礼であるというような言われ方で説明されていたように思う。もちろんそれはそうだろうとも思うけれど、それにしても年に数回しか遺骨収集ができないのはなぜなのかというと、「日本政府の米国への忖度」があるからではないかという。米国側ではむしろ、拒む理由がない……というのにも関わらず。
硫黄島は間違いなく、日本の領土でもあるのに。

最終章のインタビューは必見

第8章では、硫黄島遺骨収集に関するキーマン3人にインタビューをしているが、この章も「えっ、そうなんだ」と驚きの連続だった。まず、尾辻秀久氏という自民党員、しかも要職(参院議長)に就いている議員が、遺骨収集について意欲的であり、遺骨収集の集中実施期間の延長のために議員立法を提出しようとしているということ。
今の政権は、よくネットで言われる「今だけ、金だけ、自分だけ」の欲にかられた人間ばかりの集まりだと思っていたけれど、戦争の記憶が色褪せないように、戦地で散った同胞のために力を尽くす人もいるのだ。

そして、菅直人政権下で結成された「硫黄島における遺骨収集のための匿名チーム」のリーダーだった阿久津幸彦氏。菅直人元首相が硫黄島遺骨収集に力を入れると宣言したことは、新聞で読んだ記憶があった。そして、本当にそれまでとは桁外れな成果を出すほどに、遺骨収集に注力したことをこの本で知った。このことに関しては、縦割り行政を超えた省庁の協働もあったということも初めて知った。

そして3人目のインタビュー(というか公開質問)の相手は……。
これはぜひ、本書を読んで驚いてほしい。

思わず涙がこぼれた記述

映画『硫黄島からの手紙』を見たときには、ラストの、兵士たちの手紙が背嚢?から散らばり、無数の兵士たちの「手紙」が声となって画面に現れたときに涙がこぼれたが(ちなみに、平日の昼間に見に行ったのだが、場内で涙しているお年寄りがたくさんいらした)、本書でも思わず涙がこぼれた箇所があった。
終戦直前まで硫黄島で戦闘機の整備員をしていたという西さんが著者に語ったこと。実際に島にいた元兵士にインタビューできたことがまずすごい。硫黄島に配備された兵士は約2万1000人、生きて帰ってきた人は1000人。そのうちの一人であり、まだ存命中でかつ記憶もしっかりしている方に話を聞けたのはすごいことだ。なにしろもう戦争が終わって78年が経とうとしているのだから。
西さんは、もう戦闘機が全てなくなったため、本土へ帰ることになった。本土に向かう飛行機に乗り込むときに見た、島に残る兵士たちの表情について、西さんは、みな、「神々しいほどに笑顔だった。自分も本土へ帰りたいという人は一人もいなかった」とはなしたのだそうだ。この部分を読んだときに、涙で視界が歪んだ。
島に残った兵士たちは近々の総攻撃も覚悟していただろう。そんなときに笑顔で本土へ帰る仲間を送り出した人々は、どんな思いだったのだろう。

本書で重要な話をしてくれている三浦さん、そして西さんはすでに亡い。著者の酒井氏との出会いもそれぞれ奇跡的な縁であり、まるで「自分たちの体験を後世に伝えてほしい」というために運命が著者との出会いを作ったのではないかとさえ思えてしまう。

もうすぐ終戦記念日がくる。
78年目がもうすぐそこだ。
小笠原の父島・母島でも、山を歩いていると軍隊のものと思われる食器のかけらやビールの瓶、薬品のアンプルのかけらなどが今も見つかる。
今年は1000キロ離れた父島、1050キロ離れた母島と併せて、プラス200キロ南の硫黄島にも思いを馳せて黙祷したいと、本書を読んで強く思った。

※ちなみに、本の帯にある「日本兵1万人がいまだ行方不明の謎」については、いくつかの考察が示されているので、この内容についてもぜひ本書を読んで確認してほしい。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?