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追悼文『漫画家・鳥山明』

3月1日に漫画家の鳥山明が亡くなった。
著名人の訃報を受け取っても、あまり深く考えることはほとんどない。現実味がないからだ。普段から、その人の生を感じていなければ、その人の死を感じることもできない。だから、日常で関わりのない人がいなくなったと聞いても、何も思えることはない。
でも、今回は引っかかった。思い返したら、小さい頃から親しんでいた作品を作ってくれていた人だった。個人的な関わりはないが、彼の作品にまつわる思い出はいくつかある。なんか、書くべき、という気持ちになったので、書く。

手元に何故かドラクエIIの下敷きがあって(トップ画像のやつ)、いつもなんとなく見ていた。ちなみにゲームをプレイしたことはない。ラスボスの、顔を照らす下からの光が上手だなと思っていた。それと、敵はみんな、笑っているな、と思っていた。なんか今あらためて見ると、親VS子どもみたいな構図だ。なんで敵はみんな笑顔なんだろう、と思うだけで、別に知ろうとは思わなかった。自然だったからだ。思い返してみると、鳥山明の絵には自然さが溢れている。

時系列で話すのもつまらないので、思いついた順に書いてみる。
ドラゴンボールの9巻にブルマのおっぱいが出てくるシーンがあるのだけどそれをコソコソみてたら姉に見つかってエロ野郎認定された。しょうがない、小学生にあのおっぱいは魅力的だった。
スーパーサイヤ人の悟空のポスターが子ども部屋に貼ってあった。ジャンプの巻頭についていたポスター。斜めの壁に、誰が貼ったのだろう、おれか。緑色の背景に、金髪の悟空がこちらを睨んでいる。「2つの願い」という話のタイトルだったけど、槇原敬之におんなじ題名の曲があるなと思っていた。スーパーサイヤ人は悟空の髪をベタに塗るのがめんどくさくて金髪にしたという情報を覚えている。
悟空の絵を鉛筆で書いて、その上からペンで清書をしていた。姉に「ヘンだね」と言われた。よく見てみるとヘンだった。

勝手に湧いてくる思い出はそれくらいか。特に鳥山明を意識して生きていたわけでもないし、あんまり無理やりほじくっても意味がないだろう。

ドラクエでいうと、父親がドラクエⅢをやってて、冒険の書が消える音が死ぬほど怖くて嫌いだった。突然鳴るので最悪だった。笑。その頃は、主人公のグラフィックなんてただのドットで、敵キャラの方が緻密に描かれていたんだな。
ドラクエⅤもやったけど、天空の花嫁っていうサブタイトルがあんまり好きじゃなかった。どっちかというとファイナルファンタジーの方が好きでした。

そんなところでしょうか。
追悼文とはなにか。
でもまだ、なにかある。心に。ツラツラと思い出を書いて、終わりってわけじゃないっぽい。
なんだろう、なんかヘンだな。生を感じてもいない人の死をいきなり感じたからか。訃報を告げるテレビで、彼の顔を見た。全部若い頃の映像で、僕が生まれる以前のものばかりだった。ああ、だからかも。鳥山明は、わたしの中で人として存在していたのではなく作品の向う側に存在していた、キャラクターのように感じていたから、わたしはいま戸惑っているのかもしれない。彼の死、というよりも、人間としての生が存在していたことに戸惑っているのかもしれない。彼は人として生きていて、生きて作品を作っていたからドラゴンボールがあるのだ。なんて、くそ当たり前のことなんだけど。なんか、そう、最初の方にも書いたけど、あまりにも自然だった。彼の描く絵や、世界は。だから、海とか空とか空気みたいに、自然物として当たりまえにあるものだった。と、感じていたに違いない。神様がいなくなっちゃった感じかな。この神様というのは、信仰でいうところの神様じゃなくて、八百万の神さま。そんな人が、いなくなっちゃったんだ。だからこんなにヘンな気持ちなんだ。
どうしよう。
悼み方なんて知らないけど、誰かに教わるものでもないだろうから、自分なりの悼み方を考えてみよう。

漫画家・鳥山明さん、ありがとうございました。

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