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龍神靈氣読本は、毎週月曜更新されます。
今週は無理やり週末だけど更新しちゃう。

この2年、とある力について追いかけていました。
「神力」、わたしは「人は神を目指すべきではない」という論者です。
靈氣伝授の中でもそう教えてきます、なぜなら氣を使える人になると自分が神にでもなったかのように勘違いする子たちがある一定数必ず出現するからです。
わかるんだけれど、目の前で起こるいろいろな不思議、それは神様が見ている世界の一端ではある。
でも、あくまで「靈氣」という媒介があって使えるものであって、自分の力ではない。
靈氣とはご神気の一部、という授業を行っているにもかかわらず、一定数の生徒さんは「わたしが治すんです!どうしたら治せますか?!」と訊いてくる。
あのね、その時点で医薬法違反だから。
もう現場出るの止めて、すんとそう答えたりします。
当たり前だよ、育成者としては責任持てないから怖くて出せないわ。
(という理由でうちにはインターン制度があります)

靈氣の世界に入って約20年、育成者となり15年が過ぎて、間もなく伝授した人数がようやく200人近くになるのではないかと思われる今日この頃。
別段「神力」に何の興味もありませんでした、しかし「神力」を語る生徒が入門してきてしまった。
そうなると、強制的に師範は「神力とは、なんぞや」という答えを出さなければなりません。
靈氣とは、いつも後から事実が判る。
これについて、かつての師範は「先に判っていたら怖くて、面倒くさくてやらなくなるから」と教えてくれました。
20年近くたってようやくその意味が実感を持って判るようになった(笑)。
この2年はやたら周りに「法力」だとか「神通力」だとかって言葉を使う人間が集まってきたし、その呼び名じゃなくても「力」というものに対してある種の過信や盲信がある人間が集まってきていました。
それらすべてが学びだったと知らされるのは、自分の中で「神力」についての方程式や経験則がしっかり出来上がってから。
この期間約2年……もっと早くに気づいていたら、もっと早くこの縁は切れたのかもしれません。

「神力」という力には、2通りあります。
一つは光、人に希望を与える力。
そして、もう一つは闇、人に絶望や憎悪を抱かせる力。
これらについては真理学でお伝えしています、ご興味ある方はぜひ。
靈氣はこの神力の光の方を技法として習得するためのものです。
しかし、扱いを間違ってしまうと闇の力になってしまう、これには名前がついていて「禍神力(まがつかみりょく)」と呼ばれます。
日本神話にさえ出てくる禍津神、しかし神の名がついているからには死神、貧乏神らと同様必要な神様。
なぜか、人は闇からしか学べないからです。
それゆえ、何を学べと言われているか、そこをしっかりと習得し、早々に終わりにすることが善とされる。
同時に禍神力を持ってしまえば引き換えに生涯満たされない感情に支配されて生きることになります。
それは地獄では「多財餓鬼」と言われるものに通じる性質とも言える。

昨日、久々にこの禍神力に触れました。
途端に周囲にはトラブルしか起こらなくなった、そして一番持っていかれるのがその人のご機嫌。
平和と穏やかさと安寧を奪い去る力、それが禍神力なのです。
その中でも、闇に落ちず光の力を使えるか。
それはある意味靈氣指導者としてのお試しのようなものだったのかもしれません。

臼井靈氣は回路を開ける方法はありますが、靈氣を使えなくする方法はありません。
それは、なぜか。
禍津神はある一定数この世に必要な存在です、それにより多くの人が学んでいけるから。
しかし、生涯満足を知らない神になど、誰もなりたくはないでしょう。
だからこそ、ある意味選ばれた人がそこにいく。
光の神と闇の神、その両輪が揃って初めて世の中は均衡が保たれるのです。

靈氣の学びがまた一つ、終わりました。
これから自分の伝授も変わっていくだろうな、そんな気がした朝。
そしてこれらのことは、靈氣のあるなしに関係なく、世の中に起こっている。
なぜなら昨日わたしが触れた禍神力は、一般社会の中で靈氣と関係なく起こったから。
さて。
あなたの神は光ですか?闇ですか?
神に呼ばれる、その真意をもう一度考えてみてくださいね。

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日本に数えるほどしかいない故人の通訳。イタコでも口寄せでもなく三者面談風にお筆書きという自動書記を使い故人と遺された人をつなぎ明日を照らす活動をしています。サポートくださると嬉しいです。よろしくお願いいたします。