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龍神靈氣読本は、毎週月曜更新します。
このところ、守れていないのはどうにかならんものか……

わたしは「Reiki」と、英字で綴ることは滅多にしません。
Reikiは、英英辞典にも出ているくらい世界的には有名で、にも関わらず発祥国であるはずの日本でReikiが一般的じゃないことは、常々悲しいのですが。
Reiki、と英語にしてしまうと霊気もレイキも靈氣もぐるっとひとまとめにされてます、それがとてもイヤ(笑)。
なぜならこの3つはどれも別物だからです。


靈氣を学んで、プロになって20年弱になります。
わたしはこれまで2人の靈氣師範を持ちましたが、最初の先生がよく言っていらしたこと。
「いつかは、あなたも『Reikiなんてやらなきゃよかった』って思う」
とても嫌な言葉でしたが、やがて予言通りわたしもそう思う時期を迎えました。
冷静に考えればそれは通過儀礼に過ぎず、その選択をしているのはあくまで人間で、さらにあのとき自分が使っていたものが「靈氣」だったなら、もっと違った結果だっただろうと思うのです。
このとき、わたしが教授されたものは靈氣ではなく「霊気」でした。

通過儀礼の中でもがき苦しんで、「もう霊気はやめます」と師範に言ったとき、ものすごく怒られました。
よく考えれば別に怒られる筋合いもないし、何が悪かったのかいまだにわからないのですが、「どれだけの想いでここまで育てたと思ってるんだ」的なお話をされたことは強く印象に残っています。
これは自分が師範となってからどれほど手のかかる生徒さんに巡り合おうとも、戒めとして同じことだけは死んでも思うまい、と強く決意させるに至る出来事でした。
だからと言ってどんな生徒でも赦すのか、というのはまた別のお話ですが(笑)


話を戻しますが、怒り狂った師範はお説教が一通り済むと、こうおっしゃいました。
「いいわよ、じゃあとっとと辞めなさいよ。そのかわり、あなたには生涯泥の霊気と雲の霊気の違いが判らない。わたしはそれを知りたくてこれを続けてる。生涯判らないままでいいなら、とっとと辞めたらいいんじゃないの?
可哀そうな人ってことで、もういいと思うわ」
なんど思い出しても、やっぱり結構ひどいと思うこの言葉(笑)。
当時はいまよりもさらにはねっ返り気質だったので、この言葉にまんまと乗っかり、業界に留まるわけです。

泥の霊気と、雲の霊気、なにそれ?
どうだっていいけど、世の中に知らないことがあることがちょっとイヤ。

そんな単純な理由で気づいたら20年(笑)。
しかしそんな理由の残留ですから、当然その後もことあるごとに師範に怒られ、のちに本部預かりとされて二人目の師範とご縁ができることになります。
そこでは「レイキ」を学び、その「レイキ」に異を唱えた、という理由で破門されることになります。
(こう書いてみても、いったいなにやってんの?状態(笑))

破門されたわたしを待っていたのは、「独学で靈氣の存在を知る」という課題。
流派公認の縛りがなくなって自由に情報を取れるようになったこと、また好奇心の赴くままにいろいろな人に会ったり話をしたことがきっかけとなり、臼井靈氣を自分なりに検証してみよう、と考えるようになります。
そのころ東日本大震災が発災。
震災体験者となったわたしはその後、ショックで一時業界的に廃人化します。
そんな時期に社会復帰のきっかけとなった東北復興支援先でヒーラーと名乗る人たちが善意を盾に被災地を荒らしていることを耳にします。
そこでみた救済を謳ったReikiの使われ方に、ちょっと我慢がならなかった。
こんなことされるんやったら、自分でやるわ!
そう強く思ったのを覚えています。こうして幾度となく靈氣に呼ばれ、導かれ、いまこの場所に立っている、というわけです。


泥のReikiについてはもう幾らでも語れます、随分いろいろ見てきた気がします。反対に雲のReikiについて聞かれたら、こう答えます。

それを「神様劇場」と呼んでいます。

あなたはReikiをお持ちですか?
それはレイキ、霊気、それとも靈氣のどれですか?
なによりも、あなたのReiki、

神様劇場の入場チケット、貰えます?

一年半で人生が激変する靈氣伝授やっています。

日本に数えるほどしかいない故人の通訳。イタコでも口寄せでもなく三者面談風にお筆書きという自動書記を使い故人と遺された人をつなぎ明日を照らす活動をしています。サポートくださると嬉しいです。よろしくお願いいたします。