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note始めました!(マジで笑)

まずは自己紹介!パート1

Facebookでフォロワーが3,000人超えたらnoteやろうと4日前から思っていました。どんな話題になるかは一年後にわかると思いますが、もしも有料化でき、もしももしも、大きな売上になったらそれは地域に投資します。
なぜなら、私は地域に食べさせてもらっているからです!!

幼少期から他とは違う生活環境

オレのオヤジの数奇な人生

父親は、山形県朝日町出身。10歳から親元を離れ、すでに東京にて暮らしていた姉夫婦の家に預けられる。オヤジは、この姉がめっちゃ怖かったらしい笑。
オレの父親は若い頃、空港の待合で「江夏豊かさんですか?」と何度も声をかけられるほどの強面。。。実際、オレもその場に遭遇したことがあって、江夏豊を知らなかったからその時はなんとも思わなかったけど、中学生になり、友人から「岡崎の父さん、めっちゃ怖い、、えっ、ヤ◯ザ?」と言われるくらいの強面。
そんな強面のオヤジが51年という短い人生で一番怖かったのが、この姉、オレにとってはとても優しい叔母さんでした。
5人兄弟の末っ子で生まれたオヤジは、厳格な父親(オレにとっては爺さん)から「どんなに厳しくしても、周りがチヤホヤして気がつけば殿様になっている」と言われていたそうです。実際、母親(オレにとっては婆さん)が30円あげるから畑を耕してこいとオヤジに頼むと、オヤジは子分を3人連れてきて、一人に5円づつ渡し、畑仕事は子分にやらせて自分はそれを監督し15円をもらっていたと、後に婆さんが教えてくれました。
そんなオヤジを見た爺さんはついに、10歳になったオヤジを東京に一人追い出したのです。そう、オヤジにとって一番怖い姉さんの家に。
姉さん夫婦の家は、矢口渡駅のすぐそばにありました。そして、そこでも運命的な出会いがあったのです。姉さんの旦那さんです。旦那さんは日本精工株式会社に勤めていましたが、経営難に陥っていた株式会社東京精密に出向を命じられました。そのとき旦那さんは「出向の立場で行ったら誰も私の言う事など聞いてはくれません。日本精工を退職して東京精密に転職します。その方が私も頑張れます。」と言って、日本精工を退職し、東京精密に就職しました。その後の東京精密の躍進ぶりはものすごく、東京証券取引所に上場し、結果、代表取締役から会長まで登り詰め、日本の精密機器工作機械は東京精密無しに語ることはできなくなりました。後に日本精密機械工業会の会長も務めました。
姉さんもすごいですが、この姉さんの旦那さんもすごいのです。名前は軽部昭三郎といいます。
そんな家族に育てられたオヤジは、会社経営を身近で感じ、日本の高度経済成長を間近で見てきました。そして、高校は、日本大学第三高等学校に入学し、大学は日本大学理工学部土木工学科に入ります。
当時の大学生の中では強面でヒトキワ身体のでかかったオヤジは、なんと、日大アメフト部に誘われ入部しました。あのタックル大学のアメフト部です。でも、地獄のようなキツイ練習についていけず3日目で辞めたそうです笑
その後は、大学闘争が激しさをます中、御茶ノ水にある大学へは行きたくても行けず、神田駿河台の雀荘に通う日々、教室にいるより雀荘にいた時間の方が長く、雀荘に行く金がなくなれば、友人の寮に潜り込み、徹夜で花札をやっていたそうです。オヤジが死んだときに葬式に来てくれたオヤジの同級生も同じことを話していたので本当の話だったんだと思います笑
そして、大学を卒業する時、オイルショックが日本を襲います。
しかし、日本大学理工学部土木工学科は土木の世界では東大、京大に次ぐ歴史を持っているので就職には困らなかったそうで、清水建設の小会社の日本道路に就職しました。そして、最初の赴任地が岩手県紫波町だったのです。1968年の春でした。
就職は決まっていたのですが、大学の卒業は最後の最後まで決まらず、最後は、単位をくれなかった先生の家にバームクーヘンを持って行って単位をもらったそうで、それ以来、岡崎家はバームクーヘンは特別な食い物になりました笑←これマジです。

最初の赴任地が紫波町、そして出会い

日本道路に就職したオヤジの最初の赴任地が紫波町の現場でした。国道4号線のバイパス工事、当時の受注額が6億円、今から55年前の6億円なので今だったら50億円の現場ですね。
そして出会ったのです。。。
そう、オレの母親に。母親は日本道路紫波作業所の事務員をしていたのです。
そして、二人は結婚し、どう考えてもできちゃった婚だと思いますが、結婚式の6ヶ月後にオレが紫波に爆誕しました!
その生まれた家が、母親の実家だったのですが、オレが17人目の家族でした。
いま、思えば、毎日誰かが喧嘩していたような、そして毎日テレビの奪い合いをしていたような、そして毎日、シャケを食っていたような笑
最年少の私にも仕事が与えられました。まずは、飼っている岩手短角牛の牛の世話です。毎朝と夕方に餌やりが私の仕事。そして、夕飯時にはかまどで米を炊いていたので、そのかまどに使う薪割りが仕事でした。思えばその薪は五右衛門風呂にも使われていました。いま思えば貴重な体験ですよね。毎日、キャンプみたいなもんです笑
最先端なアーバンキャンピングっす。
朝も早いです。私は朝のシゴトは牛の餌やりだけでしたが、大農家だったので夏の時期は4時頃から農作業が始まり、朝食の準備をして、もちろん竈で米を炊きます。
少し脱線しますが、私は、米の焦げが好きじゃないんです。みなさん、「あぁ、おこげだぁ!」と言って喜んでいるのが信じられません。あの、硬い米の焦げのどこが旨いのか、全く理解できません。
そんな幼少期を過ごして小学校に入ってすぐにオヤジは家を新築しました。35歳頃だったと思います。
そして、17人家族から4人家族になったのです。

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