イーユン・リー「獄」の代理母出産は無理がある、という話
◆まえがき
学生時代からファンである都甲幸治先生のオンライン講座でイーユン・リーの短編集『黄金の少年、エメラルドの少女』(河出書房新社、2016)を読んだ。
これまで名前は何度も聞いていたものの特に理由もなく読んでこなかったことを後悔するくらい良かった。今年度のベストかもしれない。
しかしながらそのうちの「獄」について、物語のキーとなる部分が明らかに、意図的に、誤っていた。47歳が自分の卵子を用いて代理出産を成立させることはまず不可能であり、できて当然という夫婦の姿勢はおかしい。ざっと調べたところそれを指摘する書評が見当たらなかったのでここに記すことにする。
◆「獄」とは
さて「獄(原題:Prison)」は2006年に発表された短編で、2008年にO・ヘンリー賞を受賞している、紛れもない名作だ。アメリカに移住した中国出身の夫婦が、16歳の娘を亡くしたことをきっかけに代理母出産を決める。ひとり中国に残った妻の一蘭(イーラン)と代理母として夫婦の受精卵を移植し妊娠した扶桑(フーサン)は——。
というストーリーで、ネットでタタターンと検索すると「代理母問題を扱った衝撃の話題作」というあおり文とセットとなっている。
◆「代理母出産」とは
で、私が言いたいのは、まさにそのコアの部分、「いや自己卵移植して代理母出産とか無理あるでしょ」ということだ。詳しく説明したい。
①「不妊治療」とは
代理母出産を語る前に「不妊治療」を説明する必要がある。
何らかの理由で子供ができないカップルが行う不妊治療は、おおざっぱに言って
(1)タイミング法…内診を受けて排卵しそうな時期を診てもらい良いタイミングで性行為を行う
(2)人工授精…同じく良いタイミングで特殊な器具を使って活きのいい精子を子宮に注入する
(3)体外受精及び顕微授精…卵巣に針を刺して卵胞を採り、体の外で精子と授精させ、ある程度育てたり育てなかったりしながら受精卵を子宮に戻す(体外受精と顕微授精はその受精の方法が違う)
がある。
②「代理母出産」とは
では「獄」内で行われた「代理母出産」とは何か。
代理母出産も体外受精と途中までは同じだが、受精卵を卵胞を採った女性Aの子宮ではなく全く別の女性Bの子宮に戻し妊娠出産を試みるものである。ただ、その特殊性から家族関係を複雑にする、生まれた子の福祉に反する、母体の健康に影響を及ぼす等の理由から日本では合法とされていない。中国でも違法とされているところを、作品内ではお金の力でどうにかする。
その是非はここでは論じない。ただ私が主張するのは、47歳の一蘭が代理母出産を実現することは不可能に近い、ということである。
◆ここがおかしいぞ「『獄』における代理母出産」
くり返しになるが、47歳の一蘭の卵子では代理母出産は不可能に近い。なぜか。
代理母出産だろうと体外受精だろうと人工授精だろうと自然妊娠だろうと、卵子と精子が受精して育っていかなくてはヒトは妊娠出産にたどり着けない。そして正常な受精と受精卵の成長には、卵子の若さがとても重要になる(精子の老化も関係するがここでは一旦置いておく)。
ヒトの卵子は母親の胎内にいるときに作られ、刻一刻と老化(劣化)する。毎月排卵のたびに複数個が失われるので残弾数も減る。最大値は母親の胎内にいるときというくらいだからとてもシビアだ。
だから卵子の持ち主が老いれば老いるほど、卵子は採れにくくなり、受精しにくくなり、成長しにくくなり、遺伝子異常がでやすくなり、流産しやすくなる。年をとると妊娠しにくくなるのはこのためである。
日本産婦人科学会が公表している2020年のデータによれば、一蘭と同じ47歳の体外受精による妊娠率は約4.2%である。そしてその後生児を獲得できたのは約1.2%に過ぎない。これは移植ができた人——つまり採卵ができた人に限った確率なので、卵胞がうまく成長しなかったり卵巣内に卵胞が見つからないほど卵胞が減ってしまっている人を含めると前者は約1.5%、後者は約0.4%となる。
一蘭はおそらく一回の採卵で妊娠10週まで行き着くような受精卵を複数作れているようだが、これがどれだけ奇跡に近いか分かってもらえるだろうか。絶対に無理とまでは言えないまでも、特に医者である夫が「できて当然」という姿勢でいるのはおかしいのである。
◆やるなら「卵子提供」のはずだけど…
一般に、妊娠を望む高齢の女性がとる方法は「卵子提供」である。一回あたりの金額は高いが、何度も採卵移植を繰り返すよりはコストが抑えられる可能性が高い。ただしその名から想像がつくように、男性パートナーの精子を用いれば男性側の遺伝子を受け継がせることはできるが、女性側の遺伝子が受け継がれることはない(逆パターンに「精子提供」もある)。
先に述べたように妊娠出産に当たっては卵子を保有する女性の年齢が大きく作用する。逆を言えば、一度妊娠してしまえば、母体の年齢はあまり関係がない。もちろん高齢出産が故の妊娠高血圧症等のリスクは増えるが、受精卵が子宮に着床するのに必要な環境は薬で作れるし、妊娠を継続するのに必要なホルモンも薬でどうにかなる。インドで卵子提供を行った74歳の女性が出産した例があるくらいだ。
◆一部正しくて一部誤っている一蘭夫婦
このような知識を持って「獄」を読むと、一蘭夫婦の考えには誤解とやたらに正しい部分があることが分かる。
誤解①:一蘭の年でも妊娠出産はできる
p136「たとえこの年で妊娠が可能だとしても、この体で新たな命を育てられるとは思えなかった」とあるが、上記の74歳女性の例のとおり、卵子さえ若ければ母体の年齢はあまり関係ない。
誤解②:閉経していない=妊娠できる、ではない
p138に一蘭の閉経前に急いで代理母出産を行わなくてはいけない、という描写があるがこれはおかしい。閉経=生理がなくなる、であって生理がある=排卵がある=卵子がある、ではないからだ。
ほかにも採卵前に排卵を促す処置を行う(p139)のはおかしい(一度にたくさんの卵胞を採りたいので排卵はむしろ抑えなくてはいけない)とか、受精卵の「着床」ではなく「移植」が正しい(p149)等あるが原文を当たったわけではないので翻訳ミスなのかどうか分からない。
次に「やたらに正確な部分」である。
正確な部分①:失敗を見越している
p139に「失敗してやり直す時間が必要になる場合も考え」とある。そのとおり、何歳であっても一度の採卵で妊娠出産までいくなどという確約はない。私も第一子の出産までに二度移植している。だからこそ「獄」で違和感を覚えるのは、このような失敗を見越しているくせに47歳の自己卵による代理母出産が実現可能と信じて疑っていないところである。
正確な部分②:複数個移植を行っている
受精卵を一度に複数移植させると、着床率が上がる。双子や三つ子などの多胎は胎児や母体に悪影響が出る可能性が高くなるためこのような措置はできるだけ避けられるのだが、高齢卵子だとそもそもの確率が低いので複数個移植が行われることがよくある。p160で一蘭が独白している「双子ができたのは受精卵を複数着床させたから」とはまさにこのことだろう。
◆わざと間違えたの?どうして?
前述のとおり、根本的なところで間違っている部分と、やたらに正確な部分が混在しているのが「獄」である。
イーユン・リー自身は免疫学の修士を修めているとても優秀な女性だし、文庫のあとがきによれば代理母出産で双子を授かった友人からインスピレーションを受けて書いた作品だという。そんな人が「47歳で自己卵による代理母出産は無理」と知らずに書いたとは考えにくい。
理由はいくつか思いつく。どうしても代理母出産を扱いたかった。中国の闇——時と場合によっては人身売買とまで表現される代理母出産が秘密裏に行われているという事実を書きたかった。それもあるだろう。ただそれなら子宮をなくした若い女性が主人公でもいいはずだ。けれどそうするとどうしても読者が主人公に同情的になる。事故で娘をなくしたという理由よりも。絶妙な業の深さがポイントとなる作品だから、バランスは大事だ。
卵子提供ではダメだった。遺伝子上のつながりがなくては物語が成立しなかった。「獄」のラストの展開は扶桑のおなかに胎児がいてこそなので、扶桑の卵子をもらって一蘭の子宮に移植してはいさようなら、ではダメだった。それもあるだろう。最後の一文でタイトル回収が行われるが、私は子宮もまた「獄」だと思うからだ。もっというと息子のためなら障害のある夫のところへ戻っても構わないと言い切る扶桑に代表されるように、親子関係そのものが「獄」だと思う。
◆まとめ
物語の解釈はそれぞれとして、重要なはずなのになぜか言及している書評を見なかったので「『獄』における代理母出産は無理がある」ということをここに記した。
私は医療従事者でもなんでもない。高度不妊治療経験者だから少し知識があるだけだ。そして同じことで苦しんだ者として、子どもを持ちたいという気持ちを否定するつもりはなく、何歳でも治療にトライすればいいと思うし、代理母出産や卵子提供の是非を論じたいわけでもない。ただ「一般的に考えておかしいよね、なんでだろうね」という問いかけをしたいだけ、ということを最後に述べて終わりにする。
参考:
公益社団法人日本産婦人科学会「代理懐胎に関する見解」(https://www.jsog.or.jp/kaiin/html/kaikoku/H15_4.html)
公益社団法人日本産婦人科学会「2020年体外受精・胚移植等の臨床実施成績」(https://www.jsog.or.jp/activity/art/2020_ARTdata.pdf)
いのうえクリニック「超高齢出産…」(http://inoueclinic.blog.fc2.com/blog-entry-717.html)
上記は全て2024年2月9日閲覧