遠慮はしないが配慮はする関係(森)

しゅんぺい


それについて考えることのない状態とは、「足るを知る」的な心境なんですかね。福祉的な存在は、自分が必要とされなくなることが社会の理想になっちゃいますよね。本当は、病気や精神不調とかは、ないにこしたことはないわけで。

でも団体が存在することが目的になっちゃってしまうこともありますよね。もはや一体、誰のための場所なんだろうか、なんていう状態にもなりかねない。

でも、「この場所はひきこもりの人たちのための場所だ」と強く思うことそれ自体にも、何か危うさを感じます。提供してあげよう感なのかな。前にしゅんぺいも同じようなこと言ってなかったけ?

最近こういう、大義名分というか、志高くというか、こういうのに違和感を覚える。なんでだろ。


前回の記事で、人に合わせようとしてるんだな俺、という気付きについて書きました。それに対するしゅんぺいの応答も読ませてもらいました。ありがとう。

実は最近、しゅんぺいに言ってもらったのもあって、あと諸々の内省の結果、人に合わせることをしないということが、できつつあります。これすごいね。ほんとに人と一緒にいる時間が楽になったと思う。

相手に対して何者かでなければならない、という一種の、無意識的な、強迫観念のようなものがあったんだなと、内省して思いました。でも、自分が何者でもなくていい状態って、人との関係としてひとつの理想なんじゃないかなと思って。気を使わなくていい関係、理念的な意味で家族のような関係。

だから、自分に対して、「何者でなくてもいい」ということを許した結果、楽になった。自分がその時々で感じることを許せるようになった。周りがなんと言おうと俺はこう思う、と思えるようになったなーと。

こう思えるようになってから、いろんな気づきがあります。自分の感じることを許せれば、何が楽しいかとか何が楽しくないかとかも鮮明にわかってくるということや、あと自分の感じることの優先度が上がったから、相手に対し「こいつ嫌いだな」とか思うことも増えたな、とか。

あと、「やりたいことは何?」みたいな問いって、生きる上で何度かぶつかると思うんだけど、自分が自分であるということを許す過程を踏まえず、「やりたいことを考える」とかいうのは、あまり意味がないんだなとも思いました。人に合わせようとしている人間は、無意識的に他者の尺度で生きていて、やりたいことを問われてもそこからしか出せないな、と。自分であることを許す前と後では、この問いに対する答えもぜんぜん違うな、と。

仕事でもキャリアを考える時「あなたのやりたいことは?」を問われることが多くて、いつも全然答えられなかったんだけど、まぁ今も明確な答えはないけど、これかなぁみたいなのは出てきてるし、その答えに自分で自信が持ててる。ここ数年絶えてなかった感覚だからすごく新鮮。


ただ一方で、自分が自分であることと、みんなと生きていくことを両立させるためには、やっぱり少し工夫が必要だとは思っていて。

最近ツイッターをよくみるんですが、あるツイートで、「遠慮はしないが配慮はする」という言葉がありました。まさにこれだなと思う。自分が思うことを伝えることにどれだけ遠慮せず正直に伝えられるか、その上でどれだけ相手のことを考えて棘のある言い方をせずちゃんと伝えられるか。当分はこれを心がけようかなと思います。


印象深い友達ねー・・・。これ難しいですね。正直何も思いつかない。

俺は多分、人に興味があるというより、人との関係性に興味があるんだと思います。だから、相手の強烈な個性とか、相手からかけてもらった言葉とかの印象深さより、ただ相手といい関係だったかどうか、単なる仲良しこよしではない、ときに衝突もあっていい、そういう深い関係だったかどうかが重要な気がします。どれだけ互いの本音を出し合えたか、みたいな。


逆にしゅんぺいにとって印象深い友達ってどんな人だったか聞きたいな。






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