自己犠牲は勢いだ(渡部)

みなさま

 このタイトル、岡本太郎っぽくない? 「芸術は爆発だ」みたいな。最後らへんで、このタイトルにした理由が出てきますのでお楽しみに。

 子どものためにどんなランドセルを買うか、親子で一緒に選ぶ活動のことを「ラン活」って言うんですって。知ってました? ほんまになんでも活動にしちゃうねんから、軽いなあ。新聞記事でラン活について見てんけど、それで自分の小学校入学のときのことを思い出しました。

 保育園卒業のお祝いかなんかで、叔父さんからミッキーのランドセルが送られてきたんですよね。ミッキーが当時好きやったんかどうかはわからへんけど。それをもらって普通に嬉しい気持ちはありつつ、でもそれ以上に親にお金を使わせずに済んだことが嬉しかったなあそういえば、と思って。上の兄と姉がけっこう遠慮なくお金を使うタイプというか、親に甘えられるタイプやった(と感じている)から、それを横で見ていて「自分はちゃんとせねば」と思ったんですよね。小さい子どもなりに。それ以降、自分のなかでかなり大きな規矩になってます。いまの自分がお金をほとんど使わないこと、お金を使う趣味をしないこと、にはそういう原体験があると思う。

 それで言うと、私小さい頃すごく卑屈やったんですよ。卑屈っていう言葉が合ってるのかどうか微妙ですが、めっちゃ忙しそうにしてる母に「なんでそんな忙しくしてんの?」って訊いたら「子ども3人育てるんはお金かかんのよ〜」みたいなことを、冗談っぽく言うた母に対して「そしたら、自分産まれへんほうがよかったんかな?」ってまじで訊く、ということをやりました。母、困ってました。いま考えたら、自分がどういう気持ちで訊いたのかまったくわかりません。「そんなことないよ〜」って否定の言葉がほしかった、っていうことでもないと思うねんけどなあ、あんときの感覚的には。ただ、ことあるごとに母の仕事部屋に行って、なんでもない話を報告してたような気がするし、寂しかったのは寂しかったんやろうな、と思う。母の仕事部屋に暖簾があってんけどさ、その暖簾をくぐるあの瞬間のこと、なんとなく覚えてる気がします。「今日はしゃべる時間あるかなあ」というか、そんな期待を持ちながらくぐってた気がする。それぐらい、めちゃくちゃ忙しかったんですよね、母は。覚えてるのは、「外」っていう漢字について「外っていう漢字って、『タト』って書くん? そしたら『ソト』にすればよかったのにね〜」みたいなことを言いに行ったことも覚えてます。なんともかわいい。でも、誰かに言うたかどうかは置いておいて、同じこと思ったひとは多いんちゃうかなと思う。

 そんなふうに寂しさというか、生きることに対する心細さみたいなものは、当時からずっとあるような気がしますね。実感としては、あの場面でその後が決定された感じ。自分に対してお金を使ってもらうっていうことに、すごく罪悪感があった。いま「贅沢しなよ〜」みたいなこと言われても、すんなり「それじゃあお世話になります」ってならへんもんな。親がご馳走してくれるとしても、そのお店のなかで中の下くらいの値段のやつを頼むと思う。子どもの頃に思ったことって強いな、ほんまに。

 めっちゃ話変わりますが、この前おもしろい本を読みました。入江杏さんの『悲しみを生きる力に』という本です。2000年の大晦日にあった世田谷一家殺害事件の、殺された奥さんの実の姉が書いた本。この事件のことは、当時10歳やったのでちょっとくらい知ってたり、恐怖した気持ちとか持っとってもおかしくないんちゃうかなと思うねんけど、実際名前くらいしか知りませんでした。

 被害者遺族の視点で、あの日に何があったのか、その後遺族はどう暮らしたのか。そんなことが書いてありますが、入江さんが「傷つきやすい状態」という言葉で、以下のように書いてるんです。

 被害者やその遺族、あるいは障害者や貧困に苦しむ人など、社会的な「弱者」と思われている人々は無力な状態にあるはずだと一般の人は思いがちです。したがって、「弱者」が明るくふるまっていたりすると、そうした自分たちの思いこみからはみ出ることとなり、理解ができなくなります。結果、攻撃を受けやすい状態に置かれることになってしまうのです。元気に明るくしているなんて、おかしい、生意気だと、社会から攻撃の矢が飛んでくるのです。(中略)
 明るい雰囲気を心がけ、できるだけ前向きにふるまう。それが新しい人生をスタートさせるうえで大切だとわかっていても、そう行動すると逆に攻撃されやすい状態になってしまう。これでは、事件から何年経っても、かわいそうな人という枠内に押しこめられ、ありのままの自分ではいられなくなってしまいます。そして、遺族としての役割を押しつけられ続けることになってしまいます。

 社会的に恵まれているひととかお金をたくさん持っているひとは、妬まれたりとかちょっとでも失敗すると叩かれたりするんやろうな、だから普段からかなり気を遣って生活してるんやろうなって想像はつきやすいねんけど、そうじゃなくて、社会的な弱者に対してもこういう感情が向けられる。レッテル貼り、みたいなもんなんかな。ちゃんと悲しんでいてほしい。「遺族としての役割」を押しつけられるっていうのはなるほどなー、と思いました。悲しんでへんと叩かれるって、よくわからん、本末転倒も甚だしいねんけど。

 あともう一つ、おもしろかったのは「曖昧な喪失」の話。これには「身体的喪失」と「心理的喪失」の二つがあります。前者は、別れを告げてもいないのに、突然大切なひとがいなくなってしまうこと。戦争とか、災害で突然いなくなってしまうことが挙げられてます。後者は、相手が身体的には存在しているけれども、心理的に不在であること。結婚した相手との離婚とか、成人した子どもが独り立ちしていくことが挙げられていて、興味深いなと思ったのが、認知症や精神疾患、あとはたとえば相手が仕事にのめり込んでいて心が通い合わない状況、のことを著者は挙げています。

 ここで最後らへんに挙げられてる状況って、つまりは「私が知ってる相手じゃなくなっちゃう」ってことやんな。離婚とか独り立ちはわかりやすいねんな、でも、精神疾患とか認知症とかをここに入れるのであれば、そう考えたくなる。ずっと一緒に暮らしてきた親が、認知症によって自分のことを忘れてしまって、自分からのお世話もろくにできなくなってしまった。いままでずっと好きだったクラシック音楽にも、少しも反応しなくなってしまった。いままで元気やったあのひとが、うつ病になった途端ひとが変わったみたい、ってやつ?

 キューブラー・ロスっていうひとが、死の受容についての5段階を書いてるねんけど、入江さんが書いたような身体的な喪失と心理的な喪失が、だいたいはちぐはぐな感じで降ってくるから、関係のあるひとが死ぬっていうのはしんどくて、すぐには受け入れがたいんでしょうね。昨日まであんな元気やったのに突然、とか、昔はあんな仲良くしていたのになんで、みたいな。そりゃあそんなすぐには受け入れられへんよなあ、と思う。

 あと、また別の話書きますね。高橋源一郎さん、辻信一さんっていう2人が以前「弱さの研究」っていうのをやっていまして、2019年の夏頃に高橋さんが講演した内容で、いいなと思うのがあったので。

 普段の仕事はほかの人でもできる。どんな仕事も代わりのひとがいるんですね。でも、子どもの世話ができるのは親だけ、代替不可能なんです。子どもの面倒をみると決めた瞬間に、神から指令を受ける。コーリングですね。自分しかいない、と。それで、不思議とパワーが出てくる。

 そう、仕事やってると、ちょっとがんばってみて、自分にしかできへん仕事を、とかって思っちゃうねんけど、100%ではないけど、そんなんってあんまないやんな。自分がいなくても、なんとなくまわっていくのが仕事だっていう一面もある。でも、子どもの世話ができるのは親しかいない。それは間違いないな、と思います。高橋さんはこっから、子どもという「弱い」存在、庇護される存在こそが、親を親にしてくれる。親としてエンパワメントしてくれる、っていう話に持っていきます。実際に子育てをやらざるを得なくなってしまったときにそう思ったそうです。私はこういう話に共感するな。

 最後、最後はぜひこの話で終わりたいと思ってたんです。サムネイルがいかついけど、この事件知ってますか。ちょっと前に福岡のうなぎ屋さんであった立てこもり事件。6歳と3歳の娘さんを人質にして、立てこもったらしいです。これすげーなと思ってんけどさ、6歳の長女が先に解放されるかどうか、みたいな展開になったらしく、そんときに長女は犯人に対して「妹がまだいるから」って拒んだそうです。

 これ、できます? ちゃんと考えておきたいのは、まず自分がきょうだいと一緒に人質になったときに同じことができるかどうかと、あともう一つはこの姉妹の年齢。6歳でそんな返事ができるって、ほんまに感心するしかない。自分が同じことやるには、勢いに頼るしかないかな。頭の中ではぐるぐる「やったー」とかって考えちゃうかもしれへんけど、もう、まずは「いや、やめときます」って口に出す。先に口に出してから、ちゃんと後悔もする。でも撤回はしない。ありえるとしたらそんな展開しかないやろなあ、自分ぐらいの人間にはって思います。

 こういう生き方(っていうほど大袈裟じゃないかも)は、素直にかっこいいなと思うんです。こういう生き方をできるひとがおると、世の中捨てたもんちゃうなって思っちゃう。だから自分も何か行動しよう、とかそういうことではなくて、まあできるだけまっすぐ、強く生きていきたいなって思うんですよ、私は。

 GW、12連休やとか16連休やとか、普通に仕事あったり、いま休んでも遊べへんから逆にいまは仕事をしておいて、コロナが落ち着いた頃に代休で休むっていうことをしている友達もいました。いろいろあるなあ。みなさん、この期間何を考えましたかね?

                               渡部

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