感動的やったことと、なんで感動したのか(渡部)

みなさま

 またまた連続投稿すみません。

 今日、個人的に感動したことがありました。なんで感動的やったのか、できればみんなにも一緒に考えてほしいので、ここに書きます。

 朝、通勤のために電車に乗っていました。最寄り駅から、2つ先までの話です。乗ったときはあんま違和感あれへんかってんけど、しばらくしてふと近くを見たら、小学校低学年くらいの女の子たち3人が、三角形に散らばって立っている。一方のドア付近に1人と、もう一方のドアの両脇、椅子の端っこと接しているところに残りの2人。時々アイコンタクトをしてたりするので、おそらくお友達やろうなと思いました。でも、その距離感が変でした。友達にしては、ちょっと遠い。

 なんでこの子たち、こんな距離? しゃべってる感じもあるけど、聞こえてるんかどうかわからへんくらいの小声。口パク? ってくらい。でも結果的に、そんな変なことじゃないのでした。コロナの状況があるからやんって気づきました。そう、社会的距離ってやつでした。でも、それをこんなにちゃんと守ってる子どもを見たのは、初めてでした。

 もし私が子どもの頃にコロナが来てたら、これってたぶん無理なんですよ。一時のお友達との楽しい時間、コロナの恐ろしさなんてわからへんし、それを自分が持って帰って家族にうつしちゃう、とかもおそらく考えへんやろう、と思います。わかったふりをして、行動にはつながらない。そしたら、やっぱり近くでしゃべっちゃうやろうし、久々に友達と会うやろうからなおさらそう思います。たぶん6月に入ってから分散登校が始まったわけやから、久々に会って間もないんちゃうかなって思ってんけど、この女の子たちはきっちり、ソーシャルディスタンスを守ってました。どこから電車乗ってきたんかわからんけど、私の最寄りの2駅先で降りるまで、ほとんど会話はなし。時々のアイコンタクトは変わらず。笑顔はほとんどなかったのが気になりますが。

 3人が降りたあともちょっと観察してたんですが、その後もちゃんと距離をとってました。横並びじゃなくて、なんとなくばらける感じ。一列になってる瞬間とかあったし。ちょっと顔を横に向けながら、でも遠慮がちに、たぶんあんまり声を張らずに後ろの子に話しかけてた先頭の子が、目に焼き付きました。

 すごいなあと思ったのは、この自制力と、あとはコロナウイルスっていう理不尽に子どもの楽しみを奪うものとちゃんと闘ってるねんな、と思ったからです。いま考えたことやけど「コロナと闘う」って言葉、あるやんか。あれ、私全然リアリティがないなと思っていて。闘うってなんなん、人間にできるんは予防と、治療と、研究しかないやんかって思う。人間が積極的に制圧もなんもできへんのに、なんで「闘う」なんやろかって、ずっと、うっすらと思ってた。だから、これ書きながら思ったけど、「コロナと闘う」っていうのは自分と闘うことなんかな、と思いました。自分の中の、楽しさに流れないために闘う。感染症のことはよくわからんけど、いつまで続くんかもわからへんけど、とりあえず終息まで、自分と、自分の身の回りのひとを守るために闘う。

 私の大好きな勢古浩爾さんが「勝つ」ではなく「負けない」ということを言っています。それのほうが、よっぽどリアリティを感じます。コロナと闘う、コロナに勝つ、ではなくて、コロナに負けない。この子どもたち3人の姿勢は、まさにそんな感じやったんちゃうかな、と思っています。

 いや、この子たちほんますごいなって思いました。もっと友達同士近くにいたかったやろうし、もっとちゃんとしゃべりたかったんちゃうかな、と思うからです。ちなみに、その子たちの後ろを男の子2人が、隣り合って、肩を並べて、けっこう近くでしゃべっていたのも見ました。このコントラストがまた素敵でした。

 ここまで書いてあれやけど、これも、感動が薄れへんうちにと思って書いただけなので、特に話題にせんくっても大丈夫です。とりあえず、圭ちゃんの出してくれたやつについて応答します。

 昔はサークルのことを思い出すと「いやほんまに俺よくあんな中で死なずにようやったわ」とちょっと武勇伝的に思ってましたが、今は「あんときは既に精神的に死んでたな。家族とか当時の彼女とか色んな人に迷惑かけたな」と思います。

 これ、明確に違いますね。ネガティブなほうに書き換えられるって、ちょっと珍しい経験な気がする。過去は美化されるって言うやんか。でも、確かに黒歴史はあるな。中高大、いまも絶対あるんやろな。数年後に、なんであんなことやってたんやろ、って思う日が。

 HSPの話ともつながるねんけど、私もHSPかは知らんけど、かなり繊細やなって、認めざるを得ない感じになってきました、最近。いろいろと、モヤモヤ、ヘロヘロになることが多くて多くて。やわやなあ、って思ってます、ほんまに。

 で、繊細と言えば、私は2つエピソードを思いつきます。一つは、友達と集まるときにめちゃくちゃ気にしていたことです。輪になって座ったり立ったりしてるとき、それがきれいな輪っかにならずにあぶれてるひとがいたら、自分が輪を変形させて、そのひとがぎりぎり入るような輪に変えてました。誰か一人が、大勢の輪っかから背中を向けられてる、みたいな状況にめちゃくちゃ敏感だったんです。これ、ほんま昔からなんですよね。たぶん、遅くとも中学生くらいからは気にしてたと思う。原体験なくらい、自分にとっては大きい。たぶん、自分が背中を向けられた経験があったからなんでしょうね、もう、神経症的にその状況が嫌です。気持ち悪くなってくる。これはまずいちばんに思い浮かぶな。

 もう一つ、目に焼き付いてる場面が、子どもの頃、兄が親からもらったお菓子代のおつりをちょろまかしてて、それに対して母が呆れか、怒ってる場面です。これを見たとき、「あ、自分はそういうことしたあかんねや」って直感的に思った記憶があります。そこから自分はつくられた気がする。おかげで、お金にあまり興味のない人間になりました。ドケチな人間に。

 という物語を、自分で作ってるわけですね。自分は繊細だ、なぜなら子どもの頃のあのことがあったからだ、というふうに。この物語を無視して「そもそも繊細じゃないし」「その場面って、こういうふうにも捉えられるんじゃない?」と問い返すのが、ナラティブセラピーってやつなんかな。これをちゃんとやれば、前向きに生きていく足掛かりにはなりそうですね。

 前半の押しが強いな。やっぱり書きたい話題が先行しちゃってるので、小休止的に読んでくださいませ。

                               渡部

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