『少女だった私に起きた、電車のなかでのすべてについて』(渡部)
みなさま
先日話したときにちょっと紹介した、タイトルの本。これで考えさせられた部分があったので、紹介しておきます。
著者の佐々木くみさんが私立中学校へ通学しているときに痴漢に遭ったっていうところから、そのへんの、それ以降のディテールを書いてくれてるんですが、あるひとから痴漢をされたあとに「ありがとう」と言われた話が出てきます。書いてみたら意外と生々しかったので、読みたい方だけどうぞ。
ほかの痴漢たちは、私を人形のように扱う。体温があって動くけれども感情を持たない人形。そうとでも思わなければ、このようなことを通学途中の中学生に、彼らを見るだけで恐怖と嫌悪感で震える少女に、あえて痴漢する心理が説明できない。
だから、私に感情があるかもしれないとお礼を言ってきた老いた痴漢のほうが、人形であるかのように中学生の体を好き勝手に触り、さっさと自分が降りる駅で降りておしまいのほかの痴漢よりまともかもしれない、と思った。
だが同時に、それだからこそ私は彼を軽蔑した。
なんて惨めなのだろう。彼は多かれ少なかれ、自分がしていることを自覚している。そして、多くの痴漢とは異なり、獲物が感情を持っているかもしれないと認めているのだ。
たとえば誰かとケンカしたときに、相手からごめんねと言って終わる。そのときに「ほんまに思ってる?」とか「そういうこと(を言ってほしい)じゃないねんけどさ」って思うときってありませんか。
ケンカしているときは、相手にとって自分は感情を含んだ生き物だと見てもらえているようにはどうしても思えない。おたがいに、それだけ厳しいやりとりがあった。でも、最後は謝って終わる。言葉だけとってみたら、感情を持っているように扱われている。ここに納得のいかない感情が生まれる。
「いや、そういうことじゃないねんけどさ」って思うときも、そのときに言われた「ありがとう」とか「ごめんね」とか、感情にちゃんと寄り添ってくれている言葉を言われたその前後で、それと一致しない振る舞いを受けているからこのモヤモヤは生まれるんかな。あなたはさっきそんなこと言いましたけど、それでとりあえず繕おうとしてますけど、自分は一貫して感情持ってるぞってことなんですかね。
あらためて、「ありがとう」とか「ごめんね」は感情をやりとりする言葉なのだと思いました。そして、人間は言葉をどう感じるか、みたいなちょっと奥の部分で感情のやりとりをしたい生き物なんかね〜と思いました。
納得のいく話でもモヤモヤするやりとりがあって、納得のいかない話でも「話せてよかった」と気持ちいいやりとりがあります。むずかしいけど、表面上の言葉ではなくもっともっと深い部分で、寄り添ってもらえた、もらえなかった、って感じるところがあるんだと思います。
さくっとこれで終わります。話の聴き方、やりとりのしかたはほんまに、もっともっと精進したいですね〜。
渡部
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