周辺情報っていう言葉が好きになりました(渡部)

みなさま

 先日、仕事場で関わっている方から「大事な紙が入ってるファイルがなくなった、どうすればいいですか?」っていうことで話しかけてきたことがありました。

 自分からお伝えしたのは、どこでなくしたのか、最後に見たのはどこか、家に帰ってから確かに探してみたのか、ということ。最終的には、家に帰るまで親に連れられてきた車の中でなくしたのがいちばん有力? やったので、そう伝えました。

 そのあと、ほかの電話をしていて対応が遅れた先輩職員が伝えていたのは、おおむね私が伝えたことに加えて、以下。中身は何だったのか、今日必要なのかどうか、もしなくなったら再発行はできるのかどうか、自分も鞄に入れたファイルはなくしやすいので、たとえばこういうところにあるんじゃないか、まだ挟まってるんじゃないか、最終的には「最悪なかったら、しばらく忘れよっか!」なーんて伝えてました。

 このやりとりを横で見ていて、自分ならこの対応してもらえたらほっとするやろうなあと思ったのです。自分は、中身が何かは関係ないし、必要だから困ってるやろうと思ったし、最悪なかったら忘れよう、なんて言っていいもんやと思ってへんかったし。

 でも、不安を取り除くのってこういうことでもあるなあと。なくしたものが見つかるかどうか、っていうのは確かにいちばん重要なことかもしれへんけど、その内容が何なのか、重要度はどれくらいなのか、再発行ができるのかどうか、みたいな周辺情報を誰かに話してるうちにちょっとほっとする部分があったり、ひいては「一緒に考えてくれてよかった」みたいに思うんじゃないか、と思ったのです。

 いきなり核心にいくのではなく、周辺情報をちゃんとはっきりさせるっていうことも一つ、困っているひととのやりとりの理想形なんかなあと思いました。

 あと三浦春馬さんのこと。先日たくみと圭ちゃんと話したとき、たくみが「孤独だったんだな」と言っていて、その後あらためて考えました。でも、よー考えたらあんな人前に出るような仕事でしかもその中でもかなり選ばれ市ひとで、キラキラした人生やと思われるし、いろんなひととのつながりもあって、そんなひとやからこその孤独もあるよな、と。

 たとえば、「自分はこんな恵まれた人生なのにこんなことで悩んで、弱い」ともなるし、いろんなひととのつながりがあるからこそ「つながりがあってもこんなに悩むなんて、弱い」ともなるし。たとえばやで。

 総合すると、つながりがあればいいってもんじゃなくて、情けない自分っていうものが人生の中でたまたま浮き上がってきたときに「誰にも会わせる顔がないわ」って思っちゃう、恥の文化。これが根源なんかなあ。

 風通しのよい人間になりたいと最近思います。強いところはもちろん、弱いところもオープンにできるような。突っ込まれることを待ちわびているような。できればその風通しのよさに、まわりもちょっとだけ自由になれちゃう、というのが理想。自分のことを弱い、って思ったときに、そのあとに「大人やのに」「この年齢やのに」とかって自分は考えがちです。まずはここをなくせたらいいなと思う。

 最後に、2018年に起きた虐待死事件、覚えてますか? 船戸優愛さんが亡くなった事件。その夫婦の奥さんが書いたタイトルの本を読んでるんですが、これすごいですよ。母が夫から事実上の洗脳を受けていく過程、我が子をとるか、自分をとるかで迷っていく過程がすさまじい。自分をとるか、っていうのも単純に我が子を見捨ててる感じでもないねんけどさ、そこもまた何段にも屈折してた。特にプロローグ、母の贖罪の部分なんですが、ここがすごいです。

 結愛のところに連れて行っていただけるならなんでもします。あなたは生き続けなさい、ということ以外ならなんだってやります。

 亡くなった娘に会うためなら、生き続けなさいということ以外ならなんでもやる。こんな文章を生み出せる精神状態がすごい。けっこう、これ読むと素直に奥さんの側につきたくなりました。事件のことを一面しか知らへんのに責められへんなあ、と。

 コロナもそうですが、梅雨が明けませんね。ひとと会わない生活っていうのが普通になってきました。こんな地殻変動みたいなこともあるねんなあ、人生って。

                               渡部

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