いまんとこの結論(渡部)

みなさま

 対人支援の仕事を始めて、2年と少しが経ちました。とっても短い期間で、それくらいで答えを出すなと言われそうですが、いまんとこの、これが正解なんちゃうかなってことについて書きます。

 端的に、支援の仕事は一緒に生きていこうとすることやと思っています。間違えてたら叱ったりすることでもない、ただ優しくするだけでもない、正解に向かって導いていくことでもない。できる限り一緒に生きていこうとすること。

 正解、について一時は考えました。子どもと関わっているとき。どういう関わりが正解なんやろうか、と思って、いろんなひとの関わり方を見て、でもそれはそのひとにしかできへんことで、自分がそれをやろうとしたらどこか嘘をついていて。嘘をついていたら、やっぱりうまくいきませんでした。子どもには見抜かれる、と言われてその通りだと思いました。

 児童養護では、基本的に関わりは18歳までです。自分は入職して、そこそこ高齢児たちの担当になって、そこの子たちの人生にいきなり介入することになりました。13年とか、16年くらいを過ごしていままでちゃんと立ってきた人生に、毎日に、初めましてのひとが登場してくる子たちの気持ちは、いまだに想像できていたとは思えません。高校を卒業するまでの、一時的なお世話係。これを大切な存在と見なすか、それともほんの一部の登場人物でしかないと思うか。

 子どもの気持ちと大人の論理の乖離を見ました。大人はどうせ、っていうドラマみたいな台詞も言われました。意味なくね? って言われたことに対して、これが仕事やからさ、って言う自分に半分嫌気が差していました。もう半分の、一部分に、そんなに無条件に彼らのことを好きになれなかった、という気持ちもあります。それが正直な気持ちでした。仕事じゃなくて、このお菓子を買うお金を、夜中に一緒にマンガ読んでるこの時間を、プライベートみたいに自由に使えたらいいなって思うことも時々ありました。

 言いたいことを抑えることもありました。いまのタイミングではない、ちょっとあとになってから。もしくは、それを言うのはまた別の職員からがいいのでは、とか。失敗しないように、チームで関わっていました。結果、失敗したのかどうかもわかりませんでした。なるべくましな、ベターな選択に、自分の失敗が、向き合うチャンスが埋もれていきました。

 ここで自分の言いたいことを言えたら、どうなるんやろう、とも思いました。いや、それはちゃうやろとかって愛想尽かしたり、疲れたから家事を放棄したり、事務書類を無視してカードゲームを一緒にやれたら、と思ったこともあります。ホームの職員全員で関わる、子どもの自立のため、という言葉で、一人ひとりの関わりが少しずつ薄められていきます。

 それで、いまのお仕事。最初は施設を見学してもらって、もし施設を利用したいという希望が出たら、アセスメントという面談をします。その相手がどういう家族構成なのか、どういう人生を歩んできたのか、どういう困りごとを持っているのか、どうなりたいのか。ほぼ初対面のスタッフが、聞き取ります。そこでは、なんとなく楽しそう、だから使ってもいいですか? とか、自分の困りごとなんてないかなって強がりで言っちゃうひと、え、いきなりそんな打ち明けへんとあかんの? 初対面で? っていうひとたちの存在はあったんでしょうか。いま、ぼくわたしにとってこれがアツくてさ、これやってたら嫌なことなんて全部忘れんの、とか、いや、まだもうちょっと遊んで過ごしたいっす、っていうひとたちの言葉は置いてかれます。自立ってなんなんでしょうね、それをするためにはどうすればいいんだろうね、っていう手がかりのみ探されます。

 フリースペースで過ごし始めても、それは変わりません。楽しい時間を過ごしているように見せて、彼らが帰ったあとにはいろいろと話し込みます。今日の彼のこの行動は、なんだったんだろうね? これは、彼女の特性? 彼らがいないところで話していました。それを見立てと言うし、見立てがうまい、鋭いって言葉もあります。相手が不在で、究極的には想像でしかないのにうまい下手があるみたいです。

 ひととひとの力学を考えていました。あのひとがああやったけど、この場ではこうするしかなかったよね。どこか違和感。そしたら、この場じゃなければちゃんと思ったことを突きつけてたのか。指摘していたのか。

 見立ては、しすぎるとひとを毒するな、と思いました。しょせん想像でしかあれへんから、っていう謙虚さみたいなものを持ちながら見立てをし続けるのは本当にむずかしい。見立ては、プライベートにも侵食するんじゃないか、というのはいまんとこの仮説です。見立てをしすぎると、ひとのことを遠くから見つめるようになる。ちゃんと時間をかけて味わおうとしなくなる。このひとこういう面もあるけど、たまたまやんな、いったん忘れて信じてみよう、みたいなひととひとが関わるときのドキドキ感は遠ざけて生きるようになります。失敗はしたくないから。支援のプロやから。

 まあ、こういうのにいまんところうんざりしてるって感じです。うんざりというか、嘘を感じてる。まあ、支援の仕事に関するものっていうと雑すぎるかもしれへんけど。

 モヤモヤしちゃうので、いったんは「一緒に生きていくこと」っていう軸を立てておこうと思います。一緒に失敗するし、一緒に喧嘩もすることもあるし、一緒に何もせずにもいる。前に進まへん日々があってもいいし、何か解決策が見つかったら試してみる。失敗しても、離れていかない。ぶつかっても、もう一回関わってみる、をずっとやる。数日、数ヶ月、数年間関わらへん日があっても、また会った日には元気? って心から言えること。元気であれば喜ぶし、元気でなければそれなりに心配する。どういう人生であっても、他人である自分くらいは、それでもええんちゃう? って言えること。少なくとも自分がほしいのは、その言葉。解決策なんかではない。ひとのことを遠くから見たがるひとから切れ味のいい言葉をもらっても、何も響かへんなあと思いました。

 もう一つの職場のひとが、「チームのひとに気持ちよく過ごしてもらうことが結果的に利用者のためになると思う、これ当たり前だと思うんだけどなあ(そう考えるひとが意外と少ないのよ)」と言っていました。こういう言葉は、ほんまにそのひとがそう思ってるかどうかが意味を左右してくるねんな、とあらためて思います。信じてもらえる言葉を投げたいし、自分で投げたその言葉に自分自身がついていけるようにしたいな、と思います。

 あらためて自分の見方を出しておいたほうがいいな、と思い、ちょっと辛口になってしまいました。ほんまに、突き詰めて言えばめっちゃモヤモヤしますよ。仕事ってむずかしい〜。

                              渡部

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