見てる世界がひっくり返る経験(渡部)

みなさま

 昨日、仕事の同僚と色弱の話になりました。人生で初めて色覚検査を受けたのは、確か小学校2年生。そのとき、自分は1問目しか解けず、2問目からはまったくわかりませんでした。みんなの目からはくっきり浮き上がってきているらしい何かが見えず、当時の自分にとって「自分はまわりと違っているんだ」と決定的に思わされた出来事だったように思います。

 自分の祖父が色弱で、色弱は隔世遺伝、かつ男の子のみらしいので、自分たち兄弟に伝わってきました。書いていて、遺伝ってあらためてすげーなめっちゃ不思議って思った。

 そう、これって見ている世界がひっくり返る経験だったんですよね〜。自分が思っていたことや経験、人間関係が実は全然ちがうものだったときに受ける衝撃。これが「なるほど! 世界は広いなあ」みたいにプラスのほうに働けばいいんですが。

 失敗、で言えば人間関係を思い浮かべます。人間関係は気づいたときには後の祭りやし、色弱はどうしようもないし。マイナスってわけじゃないけど、そのときはそれなりに落ち込むし、これからどうしよう、ひとと知り合っていく自信ないや、みたいな気持ちにもなる。

 でも書いていて無理やり前向きに考えてみたら、人間関係の失敗があってこそ「もう次はやらないぞ」「今度こそ丁寧に関わろう」って思うわけやし、色弱も「自分が見てる世界がぜんぶ本物なわけじゃない」と地で思わされるような性質を持ってるのも、それはそれで幸せなもんです。色分けされてる電車の路線図が読めない、ぷよぷよがやりづらい、テレビとかゲーム機の電源が入っているかどうかわからない(緑か赤か見分けられへん)など、色弱エピソードを披露してまわりを少しずつ啓発していきたいと思っています。

 それが影響しているのかどうか、自分はあんまり決めつけない人間だと思います。自信ありげに何かを語るのがすごく苦手。決定力がない、とも言える。こっちかな? いや、こっちじゃなくてそっちかな? みたいに、誰かと一緒に迷いながら悩みながら何かをしていくのが好きです。

 言いたいことがわからへんくなったけど、この前色弱の話になったときにいろいろ思い出してみて、やっぱりその「世界がひっくり返る経験」は、それが肥やしになることもあるけどそれがあまりにも多いと一人ひとりの世界は崩壊していって、気持ちも安定せーへんよなあ、というふうに思った話です。

 たぶん、自分にもそういう経験はもっともっとたくさんある、けどそれを思い出さないようにしているというか、封印していることもあるんじゃないか。そうやって自分の日常を維持しているのではないか。

 人間は楽しいことばっかじゃないし、完璧でもなく。でもできるだけ楽しい経験は覚えていたいし、悪い記憶を歪めて楽しく彩ることもある。そうやって我々も生命を維持してるんでしょうか。うーん、まさに物語。自分にとっての物語は、自分の思いが至らぬところで自分を救ってる。

                               渡部

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