散歩している時って、どこに「いる」んだろう(森)

しゅんぺい けいちゃん


ちょっと2人のペースに触発されて俺も書きたい欲求&考えたい欲求が上がっているので、書きます。

主体性=コントロール感と、恐怖で手が出せない感は、双方よくわかるなぁと思いました。自分でコントロールしている感を感じている時期もあったし(あの時は確かに楽しかった)、僕も挫折でそういうことができなくなった(正確にはもともとできなかったのを克服しかけてたけど元に戻った)ので、ここからさらにそれを克服し直すことの難しさを感じています。

主体性に関しての記事を書いた後に思ったことだけど、マッチングアプリを作ることに主体性を見出せたのは、誰にも評価されないことだからじゃないからかなぁなんて思いました。誰から求められているものでもなく、だから正解もないし、つまり間違いも咎めもない、だから主体的に、誰に何を思われるかという恐怖もなく、ある程度好きにやれる。

僕が感じた自由は、他人の評価に合わせてしまう、ということからの自由だったのかも、と思いました。現代美術の話に繋がってきますね。


居場所について。家にいることが居心地が決してよくない、にも関わらず家以外の行き場所がない、そういう人はどうすればいいのか。んー。

馬場でシェアハウスしてた時、楽しかったのもありますけど、結構ストレスも感じていたんですよね。常にドアの向こうに誰かいることを気にしないといけないというか。1人に決してなれないというか。だから、ここにいたくない、と思うこともありました。

そういう時、どこか別の行き場所と言えば、僕には大学だったりカフェだったり、だったかなぁ・・・。でもこれがコロナで封じられているんですよね。んー。

散歩します。僕だったら。いやほんと僕だったら目線でしか語れないのが申し訳ないです。が、僕だったらやっぱり1人になりたいと思う。でも公園に1人って、なんか難しい。子どもとかいるし。だから散歩する。

思えば、公園にいる時って、公園に「いる」んですけど、散歩している時って、どこに「いる」んだろう、なんて思いました。僕にとって散歩は「いる」って感覚に近いです。歩いてるけど、別に行き先が決まってるわけじゃなくて、ただ止まるならどこか公園とかちゃんとした場所がよさそうで、道端では止まれない。でも公園で止まるのは恥ずかしい。だから道を歩き続けるという形で、そこにいる、というようなあり方をしていたなぁと思います。道に座っている人は「なんであんなとこ座ってるんだろう」と思われるけど、道を歩いている人に「なんで道を歩いているんだろう」とは言わないですよね。だから散歩します。理想的には、深夜1時以降の人が寝静まった後に散歩します。

散歩するというあり方そのものに居場所感みたいなものを感じる、のかもしれない。


すっごく唐突ですけど、憧れてる人っています?もしいたら、憧れの人間という存在が、自分の人生にどんな影響を与えているか教えて欲しいです。

最近、憧れ(こういう人間になりたい)と、超自我(こういう人間でなければならない)が、自分にどういう影響を与えているのかを考えてます。


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