涙の不意打ち、というのがあるんやろうなと思います(渡部)

 みなさま

 圭ちゃんの先ほどの投稿の、いままででいちばん泣いた瞬間の話が、とても心に刺さってきました。

 四年間かなりの時間を一緒に過ごした一人と「おうおつかれい」と何の気無しに握手を交わした瞬間、お互いに涙が止まらなくなってしまったんですね。意味が分からないくらい涙がとめどなく出てきて、手に意味分からないくらい力が入っていて。お互いに何も言葉を発することができなくて、何秒も無言で泣きながらギッチギチに握手しているわけです。

 圭ちゃんはもともと、追いコンという場でもあまりしんみりとせずに騒いでいたけども、同期とのこの何の気無しの握手を交わした途端、涙が止まらなくなった。意味がわからないくらいに涙が出てきた、とのことでした。この出来事について、ほかの友達からも同じような話を聞いたことがありました。そのひとも「自分がこんなに泣くなんて、と思った」とあとから言っていて。

 それを聞いてから、人間そういうこともあるねんな、と思いながら生きてきました。だから、私にとってかなり印象的なエピソードだったんです。これまで何度も思い出しながら生きてきました。

 そのひとと圭ちゃん、お二人のエピソードをふまえると、涙から不意打ちされる、っていうことがあるのかな、と思います。まったく予想もしていない相手、場所、タイミングで、涙腺がやられてしまうこと。がんばって収めようとしても、そのがんばりが逆に働くこと。ちょっと切り口はずれちゃうけども、こういう経験がどれくらいのひとにあるんでしょうか。気になるので、たくみやほかのみなさまも、ちょっと考えてみてほしいなと思います。

 私はと言うと、不意打ちされてぼろぼろ泣いた、という経験はなかったかなあというのが実感としてあります。けっこう振り返ってみてんけど、なくて、とっても残念。ただ、これまでの人生でいちばん泣いたのっていつだろうって思い出してみたら、それは確かにありました。

 悲しい出来事、つらい出来事以外で、いちばん泣いた出来事は、たぶん2011年の夏に、兄と一緒にキャンプをしたときだと思います。けっこうスペシャルなキャンプで、兄夫婦(当時は付き合ってただけ)と、父も参加してました。40人くらいで、栃木の廃校に行ったキャンプ。

 詳細は、思い出したら黒歴史っぽかったので伏せちゃいますが、このキャンプの本番の中日で、ミーティングをしたあとに兄と2人で話す時間がありました。そのときに、ぼろぼろ泣きながらいろいろ話しました。確か深夜の3時くらいまで。そのときが、人生でいちばん清々しく泣いてた気がします。

 泣いてるときって、いま自分が泣いてることをそこにいるひとたちに受け入れてもらえたって思えたら、さらに泣いちゃうんですよね。あれは不思議な感覚。その日のその時間は、確実にそういうのがあったなあ。

 そういう「アツい」瞬間に出会うために働いているというのは、本当にわかります。議論して、ぶつかって、一緒に苦労して、その先にやっとの成功があったり、成功せーへんくっても一緒に戦ってきた分の涙があったり、っていうのは、とっても大学生的。なかなか、社会人になってからそういう場面があるとは思えないですよね。どこかにはあるはずやと思うけど。

 マイルドヤンキーと言われるひとたちは、私もすごく幸せだと思います。けっこうみんな結婚して、家族を持ってます。だいたい、中高どっちも8:2くらいな印象です。地元に残るひとたちが8で、飛び出すひとが2。まあ、地元が大阪やからな。飛び出した自分は、圭ちゃんの言う通りで、この通りなんです。

 地方から東京の大学へ出てきて首都圏で就職してっていうルートを選択するっていうことは、そういう幸せを得る可能性を捨てて、別の幸せを探しに行くってことなんだなあって感じるんです。

 そう、別の幸せを探しに。高校を出た当時、そういう気持ちがあったとは自分の場合は思えへんけど。地元を捨てて一歩外へ出るっていうのは、結果的にそういうことになると思います。

 この前の金曜日のお昼休み、職場近くのよく行くスーパーに行ってきました。エレベーター前あたりを通るときに、薬局の制服を着たおばちゃんが向こうから歩いてきて、ちょうどすれ違うタイミングで横のほうにチラチラ目をやっていました。「なんだろう」と思い、自分からは死角でわからなかったんですが、振り返るとそこにはおばあちゃんがいました。でもそこのエレベーターが、地下1階には止まらへん仕様になっていたようです。そのおばちゃんはおばあちゃんにその旨を伝えるために声をかけます。

 私が、最近話した「外からの求めに応じるような働き方」というのも、以前書いた記事のなかでした「いまのこのコロナ下でやるべきことは、これまでもできたけどやってこなかったことのなかにある。それは、いまだからこそできることのもっともっと手前にある」という話も、こういうことだなと思いました。

 もう一つ、今日は牛乳とヨーグルトの配達のひとがやってきました。シェアハウスの同居人が対応したんですが、その配達員は、たぶんダメ元で来たんだと思います。やりとりしてる声が聞こえてきたのですが、低姿勢で、「興味ないですかね?」みたいな、興味ないふうで話を進めていました。同居人は断ってはいるんですが、見送るときに「はい、どうも」と、いつも話してるときのトーンよりも、2段階くらい大きい声でその背中を見送っていたのでした。

 なんか私は、こういうことに心動かされます。ひとのことを想像して、心配して、できることをちょっとだけ背伸びしてやる。社会の仕組みを変えて、いろんなひとに働きかけて、多くのひとを救うっていうのをやれるひとはぜひやってほしい。でも昔から変わらない人間の働き方は、少しの思いやりを、気づいたときにあちこち振りまいてみるというところにあるな、と思うのです。

 そしてそういう場所はたぶん、自分の生活圏内に十分ある。毎日通う職場。いつも行くスーパー。よく会う、よくしゃべる友達。めっちゃ便利になって、いろんなところに目がいっちゃう世の中やけど、私はじつはそういうスケール感で生きていきたいと思ってます。こう書いてると、やはり都会に住むべきじゃないかも、と自分でも思ってしまいます。

 この前話した「縦に掘る」っていうことをちゃんとやろうと思って、ちょっと質問を考えました。数字としては、いったんはかなり先が見えてきていますが、コロナが落ち着いたら何をしたいですか? という質問をしたいと思います。私はと言えば、これに中身のある回答ができないんですよね。ほんまに、友達に会いに東京へ出る、ということしかない。むしろ、いま土日をなんとなく自分の時間として過ごせているのが、またなくなるとどうなるんやろ、本読めんのかな、とかも思ってしまう。だから、さみしさもありつつ、けっこう自分的にこの時間を楽しんでいる、よいと思っている部分もありそうです。

 あ、でも横浜の中心街に行きたいな。桜木町から港のほうへ、そのへんをぶらぶら歩きたい。このままやと、せっかく横浜に来たのに全然楽しめへん感じになってまう。ということで、友達に会いに行くと、散歩しか出ませんでした。やっぱり誰かと何かをするっていうときに力を発揮するんですかね。私一人でどっかへ行くってなっても、なんも楽しいと思えねえ。めっちゃ俗っぽい質問ですが、どうですか、お二人は?

                               渡部

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