俺は仕事に愛情を期待しているのではないか(森)

けいちゃん、しゅんぺい


お久しぶりです。コロナ少し落ち着いてきましたね。

けいちゃんの「人間は外へ出て何かしないといけない」という話、これは物理的に外にでる、ということなのか、それとも何かしらの形で社会と接続していないといけない、ということなんでしょうかね。僕は昔から家で本を読んだり勉強することが苦手で、カフェに行ったり、「不特定多数の他者」の中にいるとなぜか集中できるなーと思ってて、そういう自分の体験を思い出しました。

しゅんぺいの、「誰でもいいけど〜がんばりんさいよ」の話。無条件に肯定された感覚なのかなーと思いました。自分の身で想像してみたけど、確かに嬉しいなーというか、存在の底から受け止めてもらえるような感覚になりました。

不思議なもので、これを同年代の友人とか、例えばバーで知り合ったおっさんとかで想像して見ると、こうはならない気もします。むしろそういう人に「誰でもいいけど〜がんばりんさいよ」なんて言われたら、「こいつ俺との話が面倒になって切り上げようとしてるな」なんて思いそう。

でも、これ子どものパターンで想像してみたんですよ。小さい、4歳とかの子どもから、「誰でもいいけど〜がんばりんさいよ」って言葉ではないにしろ、同じようなニュアンスの言葉を言われる場面。これ、僕の中では嬉しかったんですよね。同じように嬉しかった。

おばあちゃんと子どもって、社会的には「か弱き存在」じゃないですか。そのか弱き存在であることが、この全肯定の感覚の条件なんかなぁなんて思いました。こんなところにも弱さの力が。

あとはエキセントリックおじさんの話。確か前に会わへん?って誘われて、怖くて断ったのを覚えてます笑。

おじさん、どういう気持ちだったんでしょうね。会いたいから会うって、用があるとかそういうことじゃなくて、もはや会うこと自体が目的の行為じゃないですか。そこには好意だけがあるというか。それに対して「俺となんて、会う必要がなくなったらもう会わなくていいんだよ」っていう言葉は、必要性による関係性以外を、純粋な好意の関係を拒絶する感じがありますよね。告白を拒否されたみたいな。自分が人を傷つけてきたことに対する自責というか、それによる自分に対する諦めみたいなのがあるのかなぁ。


さて、今日頭の中が少しまとまったので、ちょっと書きおこしておきます。

ここ最近、仕事が全然できない、という状態が続いてました。仕事がしたくなさすぎてパソコンをひらけない。今日も年休とって仕事休んだし。とにかく全身が仕事を拒否してる、無理やり仕事しようとすると、全身を虫が這うような感覚になる、そんな感じで、大変しんどい。

おそらくこれは、仕事が難しい、ということではなく、「仕事に何一つ意味を見出せない」というところからきてるもののように思えて。改めて「仕事とは何か?」「俺は何がしたいのか」みたいな、根本的な所に向き合わないと、答えが出なさそうだなという気がしていました。

本を読んだり(『働くことの哲学』とか)、同僚と話したり、昔の思い出boxを引っ張ってみたり、色々試行錯誤する中で、なんとなく見えたことがいくつかあります。

そのうちのひとつが、「俺は仕事に愛情を期待しているのではないか」ということでした。

僕は多分、得意不得意を除けば、仕事自体はなんでも大体できる気がしています(営業は無理だけど)。それよりむしろ、誰とどのように働くのかの方が大事で。その「誰とどのように」という点において、愛情のようなものを、うまく言えないけど、人と人との関わりというか、情としての関わりあいというか、そういうものを期待していて、リモートでそれがあからさまに欠如したことで、こういう状態になってんじゃないか、と思いまして。

で、さらに考えたのが、「仕事に愛情を期待していいのか」というものでした。

これ、ノーなんじゃないかなぁと思っていて。そういう関係性が生まれることはあるけど、それを目指すこと自体は違うんじゃないかなぁと思ってて。

論理的に考えると、仕事は「お金を稼ぐこと」で、お金の本質は信用です。なので仕事は「信用を稼ぐこと」になる。情としての関わり合いと、信用関係って、ちょっと違うじゃないですか。こいつ一緒にいて楽しいなーという人と、こいつに仕事任せたいなーは全然違う。みんなが信用をベースに生きている世界で、情を求めることはお門違いなんじゃないかなと。

だから結論、俺は仕事に暗黙的に情的関係を求めていて、そしてそれはお門違いではないのか、仕事でまず目指すべきは信用ではないか、と思ってます。ここまできてようやく、少し精神的にスッキリした。明日から仕事できそう。


が、その一方で、「情的関係」は、人生に絶対に必要なものだとも思います。俺が今までの人生で一番幸せだった瞬間も、きっとこの関係性の中にあった。

そうすると少なくとも俺にとっては、仕事は幸せに直結はしない、ということになる。仕事関係がこういう情的関係になることはあるけれども、プライオリティが高いのは信用関係なわけで。

こういう、それ自体が目的になるような、情的な要素って、お金で制御できなかったり、共存できない側面がありますよね。お金で愛情は買えない気もする(少なくとも俺はそこに愛情は見出せなさそう)、趣味を仕事にした瞬間その趣味の面白さがなくなってしまう、とか。そういうのはやっぱり、プラベートで満たすべきものなんですかね。

でも趣味や情的関係(例えば友達と酒を飲むとかもそう)にはお金がかかることも事実なので、お金で楽しさを買うことはできないけど、楽しい環境を作るためにはお金がいるということにはなる。

まぁなんにせよ、より良く生きたいということを考えるとき、仕事は1日8時間も使うんだからそれをどう過ごすかはすごく重要なテーマなんだけど、仕事に何でもかんでも求めるのは違うんだなーと。かつそれ以上にプライベートをどう過ごすかもとても重要だなーと。そんなことを思いました。

あとはあれだね、この結論が正しければ、情的な関係の欠如に苦しんでいる人は、ビジネスの論理では救えないんだろうね。『居るのはつらいよ』でケアと会計の論理は効率性や効果への志向性という点で相性が悪いという話があったけど、そもそも情と信用という価値の本質からして食い違うのかもなー。

なんか、ご意見あれば欲しいです。


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