時間にまつわるエトセトラ(ゆか)

前回のしゅんぺーさんの投稿から時間がたってしまいすみません。今後ももし私が流れをせき止めるようなことがあったら申し訳ないので、どうぞ私の
投稿が遅いときは飛び越えて進めてくださいね(と図々しいお願い)。

ナラティブのお話、ありがとうございました!けいさんの大学時代の話、反美化という珍しい形でしゅんぺーさんと同じく興味津々です。当時の記憶との距離感に変化があったのでしょうね。
私は過去をすぐ忘れてしまうタイプなので、実は自分の物語があまり紡げていません。
こんなに忘れて大丈夫かな、と心配になるくらい過去を振り返らないので、記憶力の高い人を見るとうらやましくもあり、一方で忘れられないのも大変なこともあるのだろうなと想像したり。忘れるのは人間の一つの特権だよなあ、とも思い、自分を正当化することにしています。
大学時代は日記を書いていたのですが、読み返すと「ほほう、このころの私はこんなことを考えていたのか」と知らない人の物語を読んでいる気分になります。これも忘れることのひとつの利点ですかね。

とりとめもなく、時間の話をひとつ。
先日、友人たちと「自分は過去志向、現在志向、未来志向のどれか?」という話題で盛り上がったんです。
私は自分自身を「常に2、3時間先のことを考えているから未来志向」と分析していたのですが、友人に伝えたら「それは現在志向だ。2、3時間先なんて現在の範疇だ」と指摘されて、目から鱗がボロボロと落ちました。
いや、本当に私は2~3時間先のことを考えている自分を未来志向だって思っていたんですよ。今だって、こうやってパソコンの画面に向かいながら「これ書き終わったらお風呂入って新しいヘアオイル使ってみよう」とか「寝る前にあの本の続きを読もう」とかルンルン考えているんです。数時間後の新しいヘアオイルを試したり読書したりしている私って「今現在」に含まれているのでしょうか?
私はてっきり「現在志向」って、五感で今この一瞬を堪能している人たち(なぜか頭に浮かぶイメージはクラブでお酒持って踊っている人たち)を指すと思っていたのですが。
現在という言葉が示すものが人によってこんなに違うのか、と心の底からびっくりしたのでした。

しゅんぺーさんの言っていた「コロナと闘う」への違和感は私も常々思っていたことでした。私たちは今、新型コロナウイルスにとても苦しめられているけれど、コロナはアニメの悪役みたいに明確な意思を持って人類に立ち向かってきているわけでは多分ないんですよね。シン・ゴジラの蒲田くんみたいに目に見えるわけでもないですし。
見えないものを敵として認定して戦おうとするのは、なんだかとてもしんどいことだな、と思います。安易な敵視は、安易な敵のすり替えにつながりかねない。もっと目に見えて、糾弾しやすいものに石を投げる日が来てしまうのではないかと怖いのです。
だから私はただただ、この状況を生き延びたいとだけ願っています。

書いて消してをしていたらつぎはぎだらけの支離滅裂な文章になってしまいました。深夜テンションということでお許しください。


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