これ、前にもした話?(渡部)

みなさま

 忘れるのは人間の一つの特権だよなあ、とも思い、自分を正当化することにしています。

 これはもう、ほんまにそう思います。私も忘れやすくて、昔に出かけた場所とか時期とかひととか、けっこう忘れます。でも自分としては、友達と話してて「え、そんなことあったんや〜」「自分そんなこと言うたんや、やばいな〜」とかって思えるから楽しいんですこれが。自分のやったこととか見てきたものを、誰かから聞いて初耳のように楽しめるって、特権だと思っています。

 鷲田清一さんが「ヴュジャデ」という言葉を「既視感」に対置する「未視感」として、本で紹介しています。私はこの言葉がめちゃくちゃ好きなんですよね。見たことのあるものを、まるで初めて見るように。会ったことのあるひとでも、初対面のように話が弾むってそれは最高やんか、とも思うんです。昔、認知症カフェという取り組みについての記事で、注文を間違えることを楽しみにしてお客さんが来る、という話がありました。「注文がそのまんま来たのが、ちょっと残念でした」っていうお客さんのコメントは、私は一生忘れません。忘れる、ということは一見弱さやと思われやすい気がするけど、そんなこともないのだと思います。

 現在志向、などなどの話は、こんな感じでしょうか?

過去志向⇒昔のことに悩んじゃうひと
現在志向⇒いまが楽しければいいよ~
未来志向⇒成長大好き!

 書いてみたら、めっちゃ偏見っぽい書き方でした。ただゆかちゃんの話は、確かに現在志向って言っちゃってもいいような気が私もします。未来って言うほど先の話じゃない。というか、やっぱり「未来志向」って言葉を聞くと「未来のためのいまを過ごす」という感じがします。ゆかちゃんのは、未来のためにいまを過ごすのではなく、未来を少しだけ想像しているだけであって。そう考えると、違うのかなあと思いました。

 私は現在志向かな。言いきるほどには使いこなせてへんねんやろうけど。享楽的、刹那的では決してないと思うけど、いまが安心して過ごせればそれでいいやって感じ。でも、やっぱり成長なんてまあいいかなって思ってることが最近わかったし、安心できる「いま」をずっと積み重ねていくぞ! って、それくらいの背伸びしない生き方はあれへんもんかね、って思ってます。

 最近、ある年上世代のひとと、納得感がほしいかどうか、の話になりました。私は要らない派だったんですが、それが新鮮だったようで、いろいろと考えさせられました。自分が何か話されたときに納得感を示すかどうかと、こちらが何かを伝えたときに納得感がほしいかどうか。どうですか、みなさん?

 私はたいていのことがどうでもいいって考えちゃうし、間違ってるって思うことでも、それがほんまにひどい事態までは招かへんやろうと思える限りにおいては、あんまり何も言いたくないです。とりあえずその選択をしてみようって思うし、「それ違うんじゃないかと思います」って伝えるときにつきものの、バトルっぽい雰囲気が嫌なのです。「その理由は?」みたいな。「あるけど、取り立てて言うほど強く思ってないですよ」っていう前置きが、もれなくほしい。ほんまに毎回。微妙なニュアンスを伝えるのを放棄している、とも言える。なんか、そういう変な無力感みたいなものがここ数年あります。

 この前別のひとが、安倍首相に対して「安倍さんは政策についての批判を自分に対する批判だと捉えるから、あんな言い方しちゃうんだろうね、と思った」って言っていて。罪を憎んでひとを憎まず的な。たぶん誰しもそういうとこあると思うねんけどさ、自分の行動を批判されて、自己を批判されてると思っちゃう、みたいな。うーん、でもそういうのをちゃんと身に着けられたらいいんでしょうねえ。相手の存在を否定しない批判のしかた、とか。

 バトルになるくらいなら楽しくやろう、とりあえず死なない限りはいいでしょうよ、って思ってるから、なんか違う意見があったときに納得いくまで話すっていうのがいまの自分にはなかなかむずかしい。話す過程は楽しいと思うけれども、着地点を見つけるため、それをうけて前に進んでいくための議論はすっかり苦手になってしまいました(ファシリテーションしてくれる別のひとがおるんやったら、もちろん乗っかりますが)。

 納得感なんて、突き詰めていったらどっかで押し付けやとも思うねんけどなあ。誰かのおかげで納得感が生まれるっていうことに、実感がない。何か失敗したときに、自分自身で「こうすればよかったんかなあ」ってじんわりと湧き出てくるもんやと。なんかこの話前にもした気がしますが(さっそくの忘れる力?)、どう思いますかねこの話?

                               渡部

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