オットー・アポカリプスの青春-ニーチェと「悪人」に関する試論
D-rank Valkyrja
※ メインストーリー第26章のネタバレを含みます。
青春につきものの憤激と畏敬というものは, おのれの手で人間と事物とをすっかり偽造し, かくすることによっておのれを発散しつくさないかぎり, 鎮まらないものであるらしい. (善悪, p.67)
1. 仮面のオットー・アポカリプス
「すべての貴族道徳, は自己自身にたいする勝ち誇れる肯定から生まれでる」が, ルサンチマンの人間は「初めからして<外のもの>・<他のもの>・<自己ならぬもの>に対し否と言う」. (道徳, p.393)このような人間は「<悪人>を心に思い描く. しかもこれを基本概念となし, …それの模像かつ対象像として<善人>なるものを考えだす, ――これこそが彼自身というわけだ!」(道徳, p. 397)
悪人に対峙する者としての主人公――実に長きに亘って繰り広げられてきた物語である. 聖フレイヤ学園時代からオットーは常に狡猾な敵として描かれてきた. そこでは戦乙女はオットーという敵=悪に対抗する限りで正義を名乗っていたのだ.
しかし, おのれの価値を他者に依存する人間をニーチェは「ルサンチマンの人間」とよび, 乗り越えられるべき存在として否定する. 超人へと, 高貴な魂へと没落せよ. 「高貴とは何か?…それは, 高貴な魂が自己自身についていだくある根本的確信である. それ自体求められも, 見いだされも, おそらくはまた失われもしない何ものかである. ――高貴な魂は自己に対し畏敬の念をいだく. 」(善悪, p.338)それが悪辣な者を直視することになろうとも, 永劫回帰する世界を直視することになろうとも, こう言わねばならない. 「これが――生だったのか」「よし!それならもう一度」(ツァラ, p.715)
「宗教は, 没落すべきであったものをあまりにも多く保存してきた. 」(善悪, p.114)絶望した者に勇気を与え, 不条理な運命に対し来世への希望を与えてしまった宗教は, おのれを然りという勇気ある者への没落を阻害した. それゆえ, 神の死によってはじめて, 没落が可能となるのである. 「あなたがた高人よ, この神はあなたがたの最大の危険だった. 神が墓に入ってから, あなたがたは初めて復活したのだ. 」(ツァラ, p.640)
主人公一行は偽神オットーの死によってはじめて, 崩壊という不条理に生身で向き合うこととなった. 彼女らは没落し, 自らの行為それ自体に「然り」と宣するのである. 彼女らが主人公として真の意味でおのれの行為に責任を持つとき, 神たるオットーは退場せざるをえないのだ.
しかしなぜ, オットーは偽=神となったのか?
2. 偽神オットー・アポカリプス
まず, 何ゆえ神は死ぬのかについて.
「神は死んだ. 人間への同情のゆえに死んだのだ. 」(ツァラ, p.191). 同情は, 他者を弱者とみなすことであり, 「他者に羞恥の思いをさせる」(ツァラ, p.187)こととなる. 「助けようとしないことは, 助けようとすぐに駆けよってくる徳よりも, 高貴でありうるのだ. 」(ツァラ, p.593)
つまり, 他者の絶望をみてそれを救うために手を差し伸べることは, その者の矜持を破壊する行為であり, 高貴な魂への飛翔を妨げる障害となりうる. 人は絶望のただなかにあって初めて, 世界へ鳴り響く自己肯定を握出することができるのだ. 神が人間に同情したとき, もはや神は目指されるべき高貴な魂ではなくなる.
自ら試練に向かわねばならない, とニーチェはいう. 「同情に引っかかっていてはならない. たとえそれが, たまたま目にした高級な人間の稀有な殉教と絶望に寄せられたものであろうとも. 」(善悪, p.81)
オットーは五百年前, 稀有な殉教者, 聖女カレンに対して何を思ったか. 愛…怒り…やるせなさ?
否, 否, 三たび否. オットーはカレンに同情したのである[1]. 不条理に命を奪われたカレンに対し, こんなはずではなかったと. カレンは生きなければならなかったのだと. 僕がカレンの命を救わねばならぬのだ, と.
とうに神は死んでいたのだ.
オットーが神の死に気づいたのはいつであったか. おのれが同情から脱せないと気づいたのはいつであったか. …いずれにせよ, オットーはおのれが超人となることは不可能であると気づいていたに違いない.
「英雄は迫害され, 悪は力を増す. 醜いものばかりで, 美しいものなどない. 世界の悪意は, 悪人が断ち切ろう. 」
オットーがテレサにカレンをみたとき, すでに自らが敵となることでしかテレサとその生徒の成長を助けることができなかったのである. すなわち, 闘うに値する敵へと, 高人へ至るために引き受けるべき不合理の体現者へと.
「君たちは, ただ憎むべき敵をのみもたねばならない. 軽蔑すべき敵をもってはならない. 」(ツァラ, p, 99)
「A-310からはカレン・カスラナの影が感じられる. 僕のカレンであると信じたい. 」
それゆえ, オットーは神の死に自覚的であったにもかかわらず, 自らを偽=神となした.
「戦乙女たちよ, 僕のことを残忍だと思うかい?僕が残忍の意味を教えてあげよう――倒れた者を, さらに叩きのめすのだ!」
対立することでテレサ達の成長を促す一方で, 自らを断罪してほしいという甘えもまた彼には残されていた.
「本音を言うと, 今日は最初から, 君たち全員と対立したかった. そして, 僕を許せない悪人だと思ってほしかったんだ――確かに前者は成功したが, 後者はやっぱり失敗した. 」
しかし, そう, もはや高人へと至ったテレサ一行は自らの敵を悪人とみなすことはしない. そして, 高人へと列せられることによって, 崩壊対抗への全ての基礎付けは完了した.
「崩壊征服の梯子, 君たちにはもう, その最初の段が見えているはずだ. 」
…のちになってその青春の魂は, かずかずの手痛い幻滅のために拷問の苦しみをなめ, ついには自己自身にたいし猜疑の眼をむけるようになるが, そのときの猜疑と良心の呵責においてさえもなお, その魂は相変わらず熱烈にして粗暴である. …こうしたなりゆきのなかで, 人は自己の感情にたいする不信から自分自身を罰する. 人は懐疑からして自分の感激を拷問にかける. いな, 人は良心の呵責がないということすらも, まるでそれが自己撞着であり純真な誠実性の疲労であるかのように, 危険だと感ずる. そこで何よりもまず徒党をくむ, <青春>に敵対することを主義とした徒党をくむ. ――それから十年経ってのち人は悟るのだ, こうしたこととてすべて――青春であったということを!(善悪, p.67)
補遺 カレンが生存した世界におけるオットー
オットーはおそらく, カレンの高潔な矜持をけがさぬよう傍観することはできなかったのであろう. その意味で彼は徹底的に超人となることができない存在であった. 死せる神としてかれが行先に選んだ[2]のは天国であったのか. 大人になれなかった一人の人間にできるもっともわがままなことは, 永遠の青春として自らの天国を作り出すということではなかったか.
「だが, われわれは天国に行こうなどとは, まるで思っていないのだ. われわれは大人になったのだ. ――だからわれわれは地上の国を欲しよう. 」 (ツァラ, P. 711)
文献
Nietzsche, F. W. (1973). Also sprach Zarathustra[ツァラトゥストラ]. (T. Teduka Trans.) 中公文庫. (Original work published 1885)
Nietzsche, F. W. (1993). Jenseits von Gut und Böse; Zur Genealogie der Moral [善悪の彼岸;道徳の系譜]. (S. Sida Trans.) ちくま学芸文庫. (Original work published 1886, 1887)
Nietzsche, F. W. (1993). Wille zur Macht [権力への意思]. (T. Hara Trans.) ちくま学芸文庫. (Original work published 1906)
[1] もちろん, オットーだけでなく, カレンの死後その行為を信仰した者たちも同情したのである(オットーはその掌返しさえも世の不条理と感じたであろうが). 人の信仰は, 高貴な者への崇敬ではなく, 同情になってしまった. カレンは高人から引き摺り下ろされたのだ!
[2] 虚数の樹に接続を試みるオットーの心象風景は実存の荒野である。タル・ベーラ『ニーチェの馬A torinói ló』を参照せよ。
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