御存命の頃の御咄(葭内いと)
尽せども運べども何でやら、真の心に不足あり。最初ふわふわした時を思案してみよ。病むごしらえをする用意。
神の話をかたく守りゆくが天の理。
めいめいが、この世、今日さんげするを思案してみよ。成程思案定めのほこりありますと思案してみよ。
切り口上、切り言葉ゆうて返事くる。これ困る。
食事、寿命はめいめいに与える。長かろうと短かかろうというはめんめんの心次第である。
借物の理、目で見よ。耳でききわけ。
人間うるおいの水たまりへ、一人御護りをうけるならば、水は下るものなれども上々へあがる水もある。下へくだる水もある。
心のせきどめ、心の切り替え、踏みどまりが肝腎である。倒けん人も倒けた人も起して通る。切れたものも繋いで通らなければならない。
頼めども頼めども利益ないのである。そちらから理を廻さんのである。 親と子と、隔てらるるは、どちらからである。よう考えてみよ。
人という、水にたとえてみよ。濁りの水も澄ませば澄むであろう。世界人並であると思うたら違う。世界のものは心で通るけれども、この道のものは、誠一つで通るのである。日々月々年々誠つくすが天の理である。
神というものは助けるが神である。 心一つ思案してみよ。どんな者でも見たててくれたらそのものが神である。
人が人を助けるのでない。人の心の誠が人を助けるのである。
人間というものは、きれい立派なものを見れば美しいというであろう。神の道は柔らかい道である。かなの道である。悪い者に悪いといえば怒る。
難儀不自由一時になるとは思うなよ。 恩々が来たのである。恩に恩が重なれば因縁となる。前生持越しとなる。神様の道であるから堪忍するとみれば、また恩にきる理。
心に誠が欲しい。元なる親とたしかに知ったならば、どんな処でもみな引きうける。めんめんさえ違わんようになりたなら天の与えも違うことはないのである。
心の理が人を助ける。知る心に誠あれば自由自在、まことあらば何事もかなう。
元、心のつとめ、身のつとめは心からである。 心治まれば身もおさまる。心にかかる事は身にかかる。心にへだてがあってはならない。心よう人を助けるならば我身たすかる。
元、今は心の踏みどまりである。今はこの世の踏みどまりである。今は心定めの時である。なかなかしっかり思案してみよ。だんだんと恩が重なってくると苦労しなければならない道も出てくる。それを人間に知らそうとてだんだんと神がはなしするのである。この事を三寸の事と思うなよ、天より深い思わくがある。それさいか見え来たならば一れつにどんなものでもようきづくめや。
みなみな世の人よ。私が人を助けてやるのや、俺が人をたすけてやるのやというものもある。神様がいわれるには、なかなか人間が人をたすけるわけにはゆきません。人を助けるといいまするは、人間に人間の親の心がある故に、人の身を助けることが出来るのである。また助かるというのである。
長い間、神の話を聞かしておいた。仕込んでおいた。十年の道が短いのではない。二十年が長いのではない。
くににやりたいものがあるで、心の真底、心の極く芯がわからんで、神の業や神の助けで神のいさおしがあらわれる。
陰口いたらみなうつる。心の鏡にうつるまいと思ても映るのが天の理である。
物入り、大儀、苦労で、口でいえん事せいとはゆわん。また出来ないであろう。
この世末代おしえおさめ。
人間はものを慎んだなら限りない。不足とたんのう理を知れよ。たんのうは誠である。借物の理を知れば自由自在である。
人間心と誠は柔らかなもので、弱いように見える。だが誠は強い。人間心の強いのは、横へ四方正面から塵をつんでおくようなものである。
人間が有名か神が有名か、人間が有名やで。
善悪は神が見分けする。
家の中が泣いたり、嗤ったりするのはいけない。 親が子に物をやるのに惜しい欲しいと思う心があろうか。取り返す親があろうか、思案してみよ。
葭内いと女は大阪の真明組(今の芦津大教会の前身)南組の講元葭内与市氏夫人、この人の手帳の中に、筆で書かれていた話があった。文はメモ程度で、解りにくい箇所が多かった。それを今の人に解るように編者が添削した。葭内いと女の手帳には、たしか明治32年と書いてあったと思う。このころ内務省の訓令の後で、昔の教理が説けなくなりかけた。それで、昔の理を書きとめておいたものであろう。いずれにしても、教祖御存命当時のにおいが強い。
(高野友治「天理に生きる」1969年)
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