敦盛の最期と私。

中学国語の多分2年生だっただろうか。「敦盛の最期」という教材を使ったのを覚えている。『平家物語』の中の一場面であるが、大筋とは関係がなくあくまでちょい話のような立ち位置なのだが、無常とはと考えさせられる。

屋島の戦いで平家軍が沖の方へ、沖の方へと逃げる途中、源氏方の武将である熊谷直実は手柄を立てたいと意気込んでいた。逃げようとしている若武者を見つけ敵に背中を見せなさるなと呼びかけると、その若武者も応戦した。直実が勝ち、首をとろうとその顔を覗き込むと、兜の下は自分の息子くらいの年の美しい武将であった。その様子に絶句しお助けいたすと申し出るが、美しい武将は「早く首をとれ」と覚悟が決まった様子である。ためらっているうちに味方が背後から馬で駆け寄ってくる。泣く泣く討ち、茫然としていた直実は彼の持ち物に笛がある事に気が付く。「ああ、平家の陣から聞こえてきた笛の音はこの人のものであったか」と悲しみ、出家への思いが深まっていく――


あの追い詰められた絶望と覚悟が見える光景を想像するたびに「戦争って嫌だよ...」と泣きそうになっていた。

実際の戦争は日本には今は無い。しかし世界の戦争の様子が切り取られてニュースとして整えられ届けられる。そして私たちはそれを見て何を思うか。

ニュースにはぐったりして運ばれる子ども、窮状を訴える人々、、直実と敦盛のように向き合い生死を分かつ応酬は報じられない。

生々しいからだ。 

個人を取りあげて生死を報じてしまっては特定の層に加勢するような捉えられ方もされる。インタビューで家族が取りあげられることはあってもどんなふうに、と感情

現代の自動小銃は向き合うことがないのかもしれない。

某錬金術系漫画の銃の名手も言っていたではないか、「銃は人を殺す感覚がなくて…」と。

平安終わり、自らの手で自分の子どもと同じくらいの美少年を屠ることになった大人

やっぱり何を思う?作り物語は、世界で起こってたかもしれないこと、世界で誰かが言っていたかもしれないこと、それを仮想世界で言うことで「ああ偽の物語なのか」と安堵させるかもしれないのだ。

文学は何も生まない?学ぶ意味などない?

しかし私たちの原動力となることもあろう、もうこのような惨禍は、と活動を始める。

誰かを失ったことの無い人々は失った人を見て何を思う?

先人が歩んでいた時代は異なるものだが繰り返してきた歴史でもある

武力、武力、、、結局争いが起こっている

世界のどこかでは戦争が今も続き、私たちも空からの脅威に怯える。


太平の世を築いた家康は何を思っていたのか
その背の向こうに積み上げられた亡骸たちは如何程か

この話を読むと平和を築くということが難しいと感じる。

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