犬じゃないものじゃないものが犬
あーーー
すっきりする
この
モヤっとする表現が
すっきりする!
COTEN RADIO
で聞いた表現
構造主義の話。
(レヴィ=ストロースの回)
哲学の話やらなんやらかんやら
で、わかったりわからなかったり
の話の中で
つまり
犬じゃないものじゃないものが犬
という
言葉に
ぐっときたわけ。
そうなんだよね
決めたいんじゃないの
でも
決めていいの
自分ではそう決めればいいけど
人は違うのよね
動物園でぶらぶらしてたら
通り過ぎたこどもたちの集団、
タテガミオオカミをみて
保育士さんが
こどもたちに
タテガミオオカミってかいてあるよ
オオカミさんなんだねー、
って言ってて
違うから!
って私は心で叫んで振り返ったけど
保育士さんにも
こどもたちにも
そんなことは
どうでもよくて
興味もなさそうに
去っていった。
タテガミオオカミも
所在投げに
歩き回っていたしね。
タテガミオオカミが
オオカミ…
オオカミじゃないけど、でも
通り過ぎていった、
保育士さんにとってと
あのこたちの今、は、
タテガミオオカミは
オオカミで
きっとまちがってすらなくて
きっとそれで、いい。
生きる中で
必要なカテゴライズや
カテゴライズの端っこが
みんな
違って
私は動物すきで
動物のこと考えることが
生きる楽しみでもあるから
私にとっては
タテガミオオカミは
オオカミじゃない
ということは
とても大事なカテゴライズ
なんだけど
ゾウでかくて
かっこいー!
で満足できるこには
アジアゾウも
アフリカゾウも
ましてやマルミミゾウも違いはなくて
ゾウ
なんだよね
共通認識というものは
社会を生きてく中で
必要でもあるし
便利でもあるけど
それが全てだったり
それがルールだったり
それが間違いだったり
それが差別になるほど
実は
共通である必要はなくて
バカにしても楽しくないし
自分はバカだと悲しくなる必要もない
こどものときは
周りにある植物は
葉っぱであり
木だった
そこに名前はなかった。
それで困らなかった。
感覚も、興味も、
生活も、時間も、
みんな同じじゃないのだから
犬じゃないものじゃないものが
犬で
いいわけだし
私にとっては
犬すら
イヌ科というイヌか、
イエイヌ、というイヌか、
で、カテゴライズされるイヌ、
は変わるけど、
犬と猫がいない国があったとしたら、
犬と猫を
犬と呼んだって
間違ってない気がする
まちがってない。
こまらない。
個人的に
ひとつのものに
ある名前をつけていたとしても
それは
人と同じと
思い込まないことが
広く
楽しく
そして
自分を生きる
ということなんだ
自分を生きる
ということは
人はひとで生きてる
ということを
知れることであると
いいな
と思う
いろんなことが
みんな
違うって
もっともっと
気持ちよく
わかっていきたいなー
余談
ポッドキャストの
COTEN RADIO と
a scope
は
考えてることが
言語化されてく感覚で
とっても面白い
考えごと好きなら
とってもオススメ
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