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反出生主義とジョーク

 人の存在を笑うな

 トルストイの『アンナ・カレーニナ』の有名な冒頭──「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」。ぼくは以前からこの言葉には違和感があった。むしろ反対ではないだろうか。不幸な家庭は、どこもよく似ている。不幸であるための条件(たとえば貧困)にはある種の客観性があるようであり、反対に幸福であるための条件には主観的な「プラスX」がつねに必要なようにおもわれる。ナボコフの『アーダ』では、トルストイのこの冒頭がパロディにされて、「幸せな家庭というものはどこでも多かれ少なかれ似ていないが、不幸せな家庭はどこでも多かれ少なかれ似たようなものだ」となっている。

 でもこうしてみると、幸福な家庭がそれぞれ異なっているというのも妙な気がする。そこでひとつの仮説を立ててみたいのだが、それは、文学が一般になぜひとの不幸ばかりをあつかうのかという問題とかかわっている。それは、人間の不幸は(それがどれほど一般的なものであったとしても)きわめて伝達の難しい性質のものなのであって、それゆえ文学は太古からこぞって「人間の不幸」を描いてきたのだ──こんな仮説である。幸福はそれがどれほど稀なものであったとしても、きわめて伝達が容易な性質をもっているので、文学の主題にはふさわしくないだ、おそらくは。

 われわれは友人の幸福を簡単に歓ぶことができるけれども、不幸となるとそういうわけにはいかない。それはたぶん、苦しみを伝達するということがどういうことなのかわれわれ人間はよくわかっていないからである。オスカー・ワイルドの『幸福の王子』にあるように、不幸な人間が幸福な人間を観て歓ぶということはある。「世界に本当に幸せな人間がいることがぼくは嬉しいよ──失望した男は銅像を見ながらそう呟きました」。あるいは反対に、幸福な人間が不幸な人間のことを不愉快におもうということはある。前者はたしかに伝達の経験であるかもしれないが、後者において伝達されているものは何もないのだ。われわれはもっとも親しい友人や恋人の不幸ですら、しばしば理解することができず、その苦しみを遠ざけてしまいがちである。二人の不幸な人間が接近することによって生じるのは、伝達ではなく、反対に共感を欠いた不機嫌や敵対性というのもよくある話にちがいない。

 ドイツの批評家のヴァルター・ベンヤミンが、親しい友人にあてた手紙のなかでこんなことをいっているのが啓発的である。「悲しいことにぼくらは、憂鬱なことや苦しいことを、完全な幸福ほどには、互いに思いやったり伝えたりする能力をもっていない」。不幸な人間は自分の経験を伝えることができないので、いっそう孤立し、いっそう不幸になってしまうのだ。

 ところでこうした経験は、近代の小説がとりわけ好んで描いてきたモチーフのひとつにほかならない。たとえばその典型的な例はドストエフスキーの『地下室の手記』である。この小説は不幸な主人公が自分の経験を伝えることができず、いっそう閉じ籠もっていく物語、と要約することができるだろう。彼は自分の不幸を一種の「滑稽な不機嫌」としてしか表現できない。彼は友人に笑いものにされることによって、生の苦痛をいっそう真剣なものにしていくのだが、その過程はどこまでも滑稽なものなのであり、その滑稽さは彼自身にはなんの慰めにもならないのである。

 ルイ=フェルディナン・セリーヌ、トーマス・ベルンハルト、ミシェル・ウエルベックのようなドストエフスキーの後裔作家たちも、不幸をやはり主観的に、ロマンチックなオーラのなかで描くのではなく、ある種の客観的なイロニーとともにその滑稽さを描き出している。地下室の住人たちは不幸を募らせながらいっそう滑稽になり、救い難い苦悩のなかにとり残される。彼らが自分の主観性のなかに閉じ籠もってその不幸を先鋭化させていけばいくほど、われわれはその過程のなかにわずかな文学的慰め──不幸の伝達──のようなものをみいだす。そのために作家たちがどれほど技のかぎりを尽くしていることか!

 不幸な人間はそのこと自体によっていっそう不幸なのだ。というのもその経験を、滑稽なものへの屈折ぬきに他者へと伝達することができないからである。それが、ショーペンハウアーやシオランのようなエッセイストが、卓越した不幸の伝道師でありながら同時に卓越したユーモリストでもあった理由であろう。彼らは今日の「反出生主義」の先駆者のようにみなされることもあるけれども、デイヴィッド・ベネター(『 生まれてこない方が良かった──存在してしまうことの害悪』の著者)のどこまでも真剣な論証スタイルとはほとんど対照的である。彼らは自分の不幸を「真顔で」滔々と述べ立てるようなことはしない。あるいはそのようなことがあるとしても、その「滑稽な」帰結を十分に自覚しているようにおもえる。彼らの「真剣さ」は、アフォリズムという詩的スタイルを必要とするのだ。また、彼らのエッセイからわれわれをくすりとさせる箇所をとり除いたら、はたして何が残ることになるだろうか。ショーペンハウアーの有名な「ヤマアラシのジレンマ」も、彼個人の不幸を表現したものというより、人間の生の一般的な条件を表現したものとみなされるには、われわれをまず笑わせなければならなかった。

 例外として、パスカルのどこまでも真剣な論証スタイルを想起すべきだろうか。しかしポール・ヴァレリーの批評によると、パスカルの断章の特徴はどこまでも卓越した詩的修辞とその広告戦略にある。たとえば「この無限の空間の永遠の沈黙がわたしを恐れさせる(Le silence éternel de ces espaces infinis m'effraie)」という表現は、冠詞のひとつにいたるまで動かすことのできない詩的言語の傑作──完璧なアフォリズムである。パスカルの『パンセ』には、世俗の魅力を殺ぐことを狙った見事な散文の数々がある。われわれがパスカルに説得されるかどうかはともかくとして、彼の透明な散文は、ひとが生の一般的な苦痛を他者に論証しようとするときに、乗り越えなければならない困難にたいしてひとつの水準を示しているようにおもわれる。ひとはあたかも不幸を一般的な経験として伝達するには、まず一人の芸術家でなければ(またパスカルのように明晰でなければ)ならないかのようだ。

 もうひとつだけ例をあげよう。HBOの傑作ドラマ『TRUE DETECTIVE』の主人公の一人(マシュー・マコノヒー)は、反出生主義的な考えの持主の刑事で、もっと保守的な考えの相棒の刑事(ウディ・ハレルソン)にせっつかれて、その極度に厭世的な思想を話して聞かせるというシーンがある。彼はおよそつぎのようなことをいう。人間の意識は進化の副産物で、自己意識のもたらす苦痛はまったく過剰で不必要なものであり、人類は存在のミステイクなのだから総じて生まれてこない方がよかったのだ、と。カウボーイハットのよく似あう南部の保守的な考えに染まり切ったハレルソンは、それを聞いてびっくり仰天して、自分から話を振ったにもかかわらず、もう二度と人前でそんな話をするんじゃないと釘をさす。しかししばらくすると、またしても極度に厭世的な気分になったマコノヒーは、つぎのように嘯くのだ。「口の中に嫌な味がする。アルミニウム、灰。サイコスフィア(精神圏)の匂いだ」。それを聞いたハレルソンは、まるで相棒が手のつけられない異星人になったかのような顔をする。

 このドラマを監督したニック・ピゾラットは、あるインタビューのなかでベネターの反出生主義から影響を受けたことを告白している。けれどこれらのシーンの特徴は、その暗い雰囲気にもかかわらず、どこまでもコミカルなものである。彼らはたがいに真面目であり、そのことがありありと伝わる分、観ている側にとって彼らの会話は滑稽なオーラに包まれているのである。実際に、これらのシーンを笑わずに見過すことができるだろうか。マコノヒー演じる刑事はどこまでも暗鬱なキャラクターであるにもかかわらず、そうでなくとも暗いプロットに笑いの色を添えているのもまた彼なのである。総じて彼の生にたいするスタンスは、観ているものに一筋縄ではいかぬ共感を誘うように描かれている。しかし彼に共感することと、彼の考えに説得されることは、いうまでもなくまったく別のことがらである。われわれはあたかも、たんなる主張として述べられた反出生主義の見解には、最良の場合でもたんに笑うことしかできないかのようではないか。

 この事実はつぎの考察へとわれわれを促す。デイヴィッド・ベネターが『 生まれてこない方が良かった』のなかで展開している論証が、その真剣な形式によってみずからがいっていることの内容に反し、そのジレンマを反省することができないでいる、そのことがさらに、彼の主張の(地下室の住人めいた)客観的な苦しみを構成しているようにみえるという問題である。そのことがおそらく彼の論証をひとが不愉快に感じる理由なのだ。彼の論証は過度に挑発的なのではない。その合理的推論にもとづく説得というくそ真面目な形式が、その内容に反しているがゆえにひとの反発を誘うのだ。──そこに、「笑い」を容れるための余地がないためである。ひとは他者の苦しみを笑うことしかできない。それだけでなく、ひとは存在の苦しみ一般を笑うことしかできないのではないだろうか。


 存在を真に受けること

 デイヴィッド・べネターの『生まれてこないほうが良かった』は「反出生主義」の代表的な著作と目されている。しかしすでにみたように、反出生主義の主張は形式的に「笑い」の構造から切り離せない。そのことを証拠立てるかのように、べネターはこの本の最初の言葉(タイトルのつぎに出てくる献辞)を両親に捧げている。「両親に/私を存在するようにしてしまったけれども」(1頁)。

 それだけではない。ページをめくって「序論」の冒頭に掲げられているのも、やはりつぎのようなジョークなのだ。

生はあまりに酷い。生まれてしまわない方が良かっただろうに。誰がそんなに幸運なのか? そんな奴は今まで一人もいないのだ!(9頁)

 これはユダヤ人のジョークとして知られているもので、フロイトのジョーク論(『機知』)のなかに引用されているものである。べネターの本を読んだひとにはわかるとおもうけれども、彼の論証スタイルはどこまでも愚直なものであって、こうしたジョークが論証の過程で決定的な役割をはたすことは期待されていない。しかしベネターは一応、このジョークを自分の見解を代表するものとして真剣に検討している。「生まれてこない方が良かった」という主張を表明し論証の開始地点となるのは、まずこのジョークを真に受けることからなのである。

ジークムント・フロイトはこうした皮肉を「無意味な冗談」だと言っているが、このことは、私の見解が同様に無意味であるかどうかという問いを提起する。存在してしまうことは害であり、故に決して存在したりしない方が良いのだ、ということは、全くのたわごとなのか?(12頁)

 べネターはそうではないと考える。というのも彼の主張は、非存在者について述べられたものではなく、生まれてきたすべてのひとについて述べられたものだからである。

私は非存在者が文字通りより良い状態にあると述べるつもりはない。そうではなくて、存在してしまうことは存在してしまう人にとって常に悪い、ということを述べるつもりである。言い換えれば、私たちは非存在者について、決して存在していないことが当人たちにとって良いことだ、と述べることはできないかもしれないが、存在者については、存在することは当人たちにとって悪いことだと述べることができるのである。ここに不合理は全くないし、そのように私は論じたいのである。(11-12頁)

 べネターは「存在していない人は明らかに一人もいない」と述べ、そうであるならば、上記のジョークはおよそつぎの二つのことを意味しているという。つまり、「生まれてこない方が良い」と「生まれてこなくてすむほど幸運な人は誰もいない」ということである。そこから間接的に、このジョークは「存在してしまうことが常に害悪であると言っていることになる」(13頁)。べネターによると、そういうことになるのだ。

 われわれはこの操作から抜け落ちてしまうものを考えてみなければならない。それはあきらかに「笑いの効果」である。「存在しないほど好ましい状態にあるひとはこれまで一人もいなかった」と述べることには、どこかしら滑稽なところがある。けれどそれを、「存在してしまうことはつねに害悪である」といい換えると何かが足りなくなってしまう。その滑稽な印象をもたらすものは一体なんなのだろう? ぼくはそれこそが人間の存在なのだといいたい(あるいは魂だ)。人間はつねに生まれてこない方がましであった。しかしそれは、生存がつねに害悪であるからではなく、非存在がまさに望ましい存在として人間のなかにあらわれてくるからなのだ。このジョークがいわんとしていることも、まさにその点にあるとしたら?

 べネターが別の箇所でこれとよく似たジョークについて述べていることも確認しておこう。べネターは、「存在してしまうことは常に害悪であるという見解は、死が存在し続けるよりも良いということや、自殺が(常に)望ましいということの有力な証拠を含んでいない」と述べている。「人生は、存在してしまわない方が良いと言えるほど悪いかもしれないが、存在し続けるのを止めた方が良いと言えるまでは悪くはないかもしれないのである」(220頁)。この見解を補強するためにべネターが注で触れているジョークを、ウッディ・アレンの『アニー・ホール』から直接引用しておく。

これは古いジョーク。キャッツキル山地のリゾートで二人の老婦人が会話をしている。
一人がいった。「ここの料理はほんとうに酷いのね」
もう一人がいった。「ほんとうね。しかも量もこんなに少ないし」
ぼくが人生について感じているのもこれとおなじことで、それは孤独と悲しみと苦痛と不幸に満ちており、しかも、あまりに早く過ぎ去ってしまう。

 べネターの主張とウッディ・アレンのジョークを隔てるものがなんであるかはそれほど明白ではないかもしれない。しかしこのジョークを真に受けることは、べネターの主張を真に受けるのとおなじことではない。このジョークの意味するところの論理的帰結ではなく、一見して不真面目な調子で述べられているこのジョークの文字通りの意味を真に受けるべきなのだ。おもうのだが、べネターはあまりに生の苦痛を真に受けているので、こうしたジョークの本質を真に受けることに成功していないのではないだろうか。このジョークのおもしろいところは、反出生主義の主観的な表現──たんに感覚的な「生まれて来ない方が良かった」──のなかにすでに滑稽な両義性がふくまれていることを開示している点にある。そして反出生主義の主張が他者に向けて論証されるとき、その滑稽な亀裂が炸裂するのである。この亀裂を真に受けなければならない。存在しない方がよかった、でももう一度、アンコール!──こう述べることは滑稽だが、だからといってまちがっているわけではない。

 ぼくの目には『TRUE DETECTIVE』の二人の刑事の会話が滑稽であったのとおなじ理由によって、べネターの論証スタイルもどこかしら滑稽なところがある。それを笑うのでなければ、われわれはウディ・ハレルソン演じる刑事の反応のように、受容できないものに直面した不愉快な印象を避けがたいのではないか。それは、こうした悟性的推論の論証に曝される読者の方が、すでに予断として反出生主義に反する見解をもっているかどうかということにおそらくかかわりがない。べネターはどこか、自分自身が主張していることの内容についての無知を露呈しているようにみえるからである。

 彼の悟性的論証のスタイルは、自分自身がいっていることの内容(真実)にふさわしくないとしたらどうだろう? 自分自身がいっていることの内容に(その伝達にさいして)はからずも反してしまうということ、その真実には、すでに述べたようにドストエフスキーの『地下室の手記』がこの上なく見事な表現をあたえているようにおもわれた。そこでドストエフスキーの地下室の住人が、はたしてベネターの考えに同意することになるかどうか想像してみるとおもしろいかもしれない。あるいはウッディ・アレンならどう答えるだろうか。彼らはオスカー・ワイルドの箴言にあるように、「自分の考えをひとの口から聞く」と、たぶんそれに「反対したくなる」のではないだろうか。そして「生まれて来ない方が良かった」という思考の(他者にたいする合理的正当化を要求されていない)主観性のなかに、すでにこのジレンマがあり、このギャップが他者にたいする論証という回路を通るとき、埋めがたく拡がってあらわになるのではないだろうか。このギャップはしかしながら客観的な意味をもっている。上記の二つのジョークは、このギャップを顕在化することによって、かえって真に受けるにあたいするものとしてわれわれに示すのである。


 キルケゴールと魂の出生

 こんな話がある。イギリスのある寒村の外れに「もっとも不幸な者ここに眠る」と記された墓標があった。それが誰の墓なのかを知るものはだれもいなかった。墓標には名前が書かれていなかったからだ。ある日村の住民の一人が、もっとも不幸なひととはどんな人物だったかと気になって、墓場を掘り起こした。すると、墓のなかは空っぽであった。これはどうしたことだろうか。

 キルケゴールはこの逸話を、もっとも不幸な者とはほかならぬ「不死のひと」であったというふうに解釈している(『キルケゴール著作集1』白水社)。もっとも不幸なひとは、墓に眠っているはずもないのだ。何せ彼は不死なのだから。

 ところでこれは、フロイトが引用した例のジョークとよく似た構造をそなえている。「死すべき人間にとっていちばんいいのは、生まれてこないことだ。しかし、十万人に一人もこの幸せを授かるかどうか」(『フロイト全集8』岩波書店)。デイヴィッド・べネターは『生まれてこない方が良かった』のなかで、このジョークを少し変えて引用していた──「生はあまりに酷い。生まれてしまわない方が良かっただろうに。誰がそんなに幸運なのか? そんな奴は今まで一人もいないのだ!」。そして彼は、生まれてこなかった者はだれもいないのだから、このジョークはつまるところ「存在してしまうことが常に害悪であると言っていることになる」と解釈した。ぼくはこの解釈に反論したのだが、キルケゴールもまた、べネターに反対するだろうことは想像にかたくない。

 キルケゴールは上記の逸話についてまさにつぎのような解釈を拒絶しているからだ。「死にえない者は最も不幸であり、死にうる者は幸福であり、老いてから死ぬ者は幸福であり、若いときに死ぬ者はさらに幸福であり、生まれたときにすでに死んでいる者は最も幸福であり、生まれない者はそれ以上に幸福であるということになろう」。これはべネターがフロイトのジョークを解釈したのとまったくおなじ措置であろう。しかしキルケゴールはそれに反対してつぎのように述べる。

死はすべての人間に共通の幸福であるから、最も不幸な者がいまだに発見されていないならば、彼をこの限界の内部に探し求めなくてはならないのである。(345頁)

 この限界の内部というのは、生の此岸においてということだ。もっとも不幸な者は、生のこちら側にいるのである。キルケゴールが「死にいたる病」と呼ぶのも、実は不死なるものの此岸における顕現のことにほかならない。どういうことだろうか? 一歩一歩みていくことにしよう。

 キルケゴールのひときわキリスト教的なスタンスとみなしうるものは、不死なる魂を生の彼岸にみいだすことでは実はない。反対に、不死なるものが生の此岸に出現する構造のことを彼は「死にいたる病」と呼んだ。不死は、キルケゴールによるとこちら側に現象するものである。人間の剥き出しの生における苦しみは、この不死なる魂に対面するとき極限に達する。それを、彼は「絶望」と呼ぶ。

キリスト教はキリスト者に、死をも含めて、一切の地上的なもの、この世的なものについて、このように超然と考えることを教えてきた。人間がふつう不幸と呼んでいるもの、あるいは人間が最大の災厄と呼んでいるものすべてに対し、かくも誇らかに超然としていられるとき、キリスト者は高慢にならざるをえないほどである。ところがそこでまたキリスト教は、人間が人間であるかぎり知るにいたらない悲惨があることを現に発見したのである。この悲惨が死にいたる病なのである。自然のままの人間が怖ろしいこととして数え立てるようなものは、──すべてを数え尽くしてもはや挙げるべきものを残さぬ場合でも、そのようなものは、キリスト者にとっては、まるで冗談のようなものである。[強調引用者。セーレン・キルケゴール『死にいたる病』枡田啓三郎訳、ちくま学芸文庫、1996年、21頁。]

 信仰のはるかな高みから見渡したとき、人間の生の有限な苦痛はせいぜい冗談のようなものである。その苦しみにはかぎりがあり、死によって終わりを迎える有限なものにすぎないからだ。キルケゴールにとって、「死にいたる病」とはこの有限な苦しみに発するたんなる「現象的な気分」としての絶望とは異なるものだ。キルケゴールにとって死にいたる病(としての絶望)の意味するところを調べるまえに、われわれの論点とキルケゴールの上記の発言のかかわりを押さえておかなくてはならない。

 すでにみてきたように、われわれ(キリスト者でないもの)にとっても生の苦痛を「まるで冗談のようなもの」と感じざるをえない局面があった。しかしその冗談のような生の局面は、かならずしも生の苦痛の真剣さを損なうものではなかったし、むしろ悪化させるものであった。しかしそれはなぜなのだろうか。信仰の観点に立つならば、不死なる魂が存在するからだと述べることができる。仮に、この結論を受け入れたとしよう。キルケゴールの論点は、魂の不死が存在するとしても、そのこと自体はなんの慰めももたらさないような、そうした構造を記述することにあった。

 ところで、「死すべき人間にとっていちばんいいのは、生まれてこないことだ。しかし、十万人に一人もこの幸せを授かるかどうか」──このジョークも実は、生の苦痛をはるかな高みから笑うものであると同時に、その「高らかな非存在」を笑い返すものでもあった。この両義性を理解するために、キルケゴールの記述している死にいたる病としての「絶望」の構造が役立つのである。

 この高らかな非存在を悟性的に否定するのと、それを笑うのとは、まったくちがったタイプの「否定」に属している。「もっとも不幸な者ここに眠る」と記された墓碑銘の逸話についても、これを同様の「ジョーク」として読みとくことができる(そのときわれわはキルケゴールと非常に近い位置にいることになろう)。もっとも不幸な者の非存在は、いわば笑われることによる否定を通して、その存在が維持される──チェシャ猫の笑いの輪郭のようなものである。

 ぼくが論じたことのひとつに、生の否定性を理解するためには、この「笑いの効果」をナンセンスとして斥けるわけにはいかない、ということが属していた。それは生の本質を構成するものの一部なのである。それを表現するためのロジックは「否定の否定」なのだが、このことを見透すために、キルケゴールの文章を続きを読まなければならない。それは実のところ、信仰を前提としなくても完全に一貫したものとして理解することが可能である。キルケゴールはまず、つぎのようにいっている。

死にいたる病というこの概念は、あくまでも独特な意味に理解されなければならない。文字どおりには、それは、その終わり、その結末が死である病のことである。それだから、致命的な病のことが、死にいたる病と同じ意味で用いられている。こういう意味では、絶望は死にいたる病とは呼ばれえない。むしろ、キリスト教的な意味では、死はそれ自身、生への移り行きなのである。(35頁)

 ここで死にいたる病がたんなる気分としての絶望と区別されていることがわかるだろう。たんなる気分としての絶望は、死によって終わるものであり、そのような絶望は逆説的にも「死にいたる病」ではないとされている。そしてキルケゴールが規定するのが、出生の構造としての死にいたる病なのである。「キリスト教的な意味では」、生がそのものとしてあわらわれること自体が、死にいたることの意味である。つまり、死にいたる病は生の内部での現象ではなく生それ自体の発現──産まれ出ることそれ自体の構造──のことなのだ。キルケゴールは続けている。

その限りにおいて、キリスト教的に見ると、いかなる地上的な、肉体的な病も、死にいたるものではない。なぜかというに、確かに死は病の最後ではあるが、死は終局的なものではないからである。もしもっとも厳密な意味で死にいたる病ということを言おうと思うなら、それは、終局的なものが死であり、死が終局的なものであるような場合の病のことでなければならない。そして、この病こそ、まさに絶望なのである。(35-36頁)

 この文章の、ほとんど理解を拒絶するような調子は、上述の観点(出生の構造としての死にいたる病)から読むならば容易に理解できることとおもう。絶望は一面ではある気分ではあるが、それは死によって終わりを迎えるものではないかぎりで、ある種の超越的な指示構造をともなっているのである。それがキルケゴールの場合、彼岸における魂の不死性を指示しているのではなくて、此岸における不死性が、生そのものの出現(出生)と同一視されているのである。

けれども、絶望は、また別の意味で、なおいっそう明確に、死にいたる病なのである。すなわち、文字どおりの意味で、この病のために死ぬとか、この病が肉体的な死をもって終わるとかいうことは、とうていありえないのである。むしろ逆に、絶望の苦悩は、まさに、死ぬことができないということなのである。(36頁)

 キルケゴールにとって、死にいたる病は有限な生の苦悩のことではない。それは、いかに絶望的であるとしても、みずからの死によって終えることができるのだから、キリスト教的な観点からすると、そこには笑うべきものしかないのだ。しかしその観点は、はるかな高みから生を見降ろすものと最初はおもわれたとしても、しだいにそれが絶望そのものであることがあきらかになる。それは、いわば(生からの超越ではなく)生への超越なのである。キリスト者の高みとおもわれたものは、従って安心をあたえるものではなく、かえってこの生への閉じ込めであった。

 絶望したキリスト者ほど切実に「生まれてこない方がよかった」と願う者もほかにいないだろう。というのもキリスト者は、生まれてしまったからには無限の生がすでに約束されているからである(べネターが出生そのものに反対する理由もこれと類比的である)。だからキリスト者にとって、死にいたる病とは出生そのもののことであり、その絶望は死へと向けられ、死によって終息するとともに、それによって終わることはないのだ(キルケゴールはそのような書き方をしている)。無限な魂が有限な生のなかへと出生すること、この構造が「絶望」なのであって、有限な生のしかじかの暗い気分が絶望と呼ばれているのではない。

 ところで無神論者はこれらのことについて何がいえるだろう? それは、われわれ自身の生の構造そのもののことではないのか? あるいは、そうではないのだろうか?

 例によって安易な答えは、単純に魂の不死性を(悟性的に)否定するということである。それが安易というのは、キルケゴール自身がその論証において、「彼岸における魂の不死性」を別に前提としているわけではないからだ。彼はむしろある気分の内在的な分析を通して、それが生の内部での現象にすぎぬものではなく、ある超越へと通じていることを論じ立てようとしている。しかもそれは、無限なものの出生という構造を有しており、われわれが解釈しなくてはならないのも、この此岸における不死性としての剥き出しの生の事実性なのである。

 ここで、ウッディ・アレンのジョークを想起しておこう。彼は人生が酷いものであるといいながら、それがあまりに早く過ぎ去ってしまうことを嘆いていた。彼のジョークは、有限な生の悲惨を笑っているだけではなく、その悲惨にいわば外側からしがみつく無限をも笑っているとしたらどうだろう? このジョークがいっているのはこういうことだ。われわれは生に何度もアンコールといってしまうだろう、その悲惨にもかかわらず、というよりその悲惨をあたえるのとおなじものによって。というのもそこには(べネターが論じているように)非対称性があるからだ。けれどこの非対称性を、ジョークとして真に受ける必要がある。というのもその無限は、実際には何ものでもない非存在であって、このような非存在の主張は、馬鹿げたものであり、そのかぎりでジョークのことさらな対象となりうるものだからである。

 われわれはちょうどこの地点で、ジョークの存在論的な意義を問うことができるところまで達したようだ。キルケゴールの解釈を経たいま、非存在の無限とは、此岸としての超越そのもののことだと理解できる。べネターの論証が、悟性の水準においてジョークから引き抜く笑いの「魂」とはこれのことなのである。

 ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』に、赤の国の王様がアリスに道には何人のひとがいるのかと尋ねる場面がある。アリスはこう答える。

「見ますに道は無人です」とアリス。
わしにも、その目、欲しいのう」キングが無念そうに言いました。ムジンが見えるとは! しかもこんなに遠いのに! ううむ、わしは、この光じゃフツー人が見えるのがやっとというのに!」(高山宏訳)

“I see nobody on the road,” said Alice.
“I only wish I had such eyes,” the King remarked in a fretful tone. “To be able to see Nobody! And at that distance too! Why, it’s as much as I can do to see real people, by this light!”

 これまでの論述は、この王様のように不可視のものを見ろということではなく、つねにすでにひとはこのようにふるまっている、みずからの出生の事実性を有限な意味に還元できず、あたかも自分が無限であるかのようにふるまっている、ということをいわんとしていたのである。この無限は、事実によっては単純に否定できない。この超越は、ジョークにおいて笑われている当のものである。そのような超越は存在しない? もちろん! だがそれは、機能している。それは、動いているのである。

 ぼくは魂の非存在について悟性的に否定するのではなくて、つぎのような態度をとること提案したい。つまり、まずジョークとして肯定すること。つまり、笑うことによって否定すること。その非存在の否定、存在しないだれかを笑うことによる「否定の否定」を、思考において真に受けること。そして、超越としての生を理解することである。

 ところでこの「無人(Nobody)」というのは、われわれがこれまで調べてきたジョークで表現されてきた他者であったが、そのような他者は「だれもいない」のだ。そのような魂の存在は、何ものでもない。しかしわれわれは、そのような他者があたかも存在するかのように、生に苦しみ、生を愉しんでいるのである。最後にひとつだけ例をあげてこの論考を終えることにしよう(おそらく論証すべきことはまだ無限にあるだろうが)。

 ビリー・ワイルダーの『お熱いのがお好き』の有名なラストシーンで、つぎつぎと仮面を脱ぎ去りながら、自分の本当の姿を恋人に明かしたジャック・レモンがいわれるのは、「完璧なひとはだれもいない(Nobody is perfect)」という言葉である。アレンカ・ジュパンチッチ(『The Odd One In: on Comedy』)が指摘している通り、このジョークはつぎの「有限な真実」をいわんとしたものではない。つまり、「だれもが欠点をもっている」という陳腐な、有限な生の事実に触れたものではない。むしろそれは完璧なひと、それが「だれでもない(Nobody)」ということを肯定した言葉である。それは、恋人の空虚な実体としての非存在なのである。

 恋に落ちることはどこかしら滑稽で、不合理な、またよくいわれるように狂気にも似た経験である。それは「無限の経験」なのだが、この経験を一種の悪無限(際限のなさ)として表現しているのがジャック・レモンの立場である。彼は自分の属性をつぎつぎに否定していく。そして自分が本当に「何ものでもない」ところまで到達しそうになったところで、ジョー・E・ブラウン演じるオズグッド3世がそのありえそうにない非存在を肯定する。この「ありえそうにない」というのは、「非存在」にだけではなく、「肯定する」という言葉にもかかっている。ジェリー(ジャック・レモン)は本当は金髪ではなく、子供を産むことができないし、煙草を吸い、サックス奏者と一緒に住んでいたこともあるし、それだけでなく、男だったのだ!

 オズグッド3世は彼のノーバディを肯定する。それはありそうにないことなので、われわれは笑う。しかしそのありそうにないことは、いってみるならば恋に落ちることの無限の経験そのものである(無限の経験といって、何も特別にロマンチックな経験のことをいっているわけではない)。われわれがこのシーンで笑いながら否定するもの、あるいは否定することによって肯定するものは、この無限である。

 よくいわれるように恋に落ちることには恋人の特徴に還元できない経験がふくまれている。だれかがなぜ恋に落ちたのかを、「三つの理由」によって説明することができたとすれば、それは恋に落ちたことにはならないだろうとキルケゴールは述べている。彼は『死にいたる病』で、自分の護教論的な意図を弁明してつぎのようにいった。

おお、たわいもないアンティクリマクス[キルケゴールの筆名]よ、或るものが一切の悟性を超越しているということが、三つの──理由で証明されるとは。三つの理由、それは、もしそれが何かの役に立つものだとしたら、一切の悟性を超越してはならないで、むしろ逆に、この浄福がけっして一切の悟性を超越するものでないことを、悟性に悟らせねばならぬはずではないか。なぜかといって、「理由」とは、もちろん、悟性の領域内にあるものだからである。むしろ、一切の悟性を超越するものにとっては、三つの理由などは、三つの瓶もしくは三匹の鹿より以上の意味をもちはしないのだ!──ところでさらにまた、恋する者が自分にとって絶対的なもの、無条件に絶対的なものではなくて、むしろ自分の恋を、この恋に対するいろいろな異論と同じに考えて、そのために弁護しなければならないなどということを、恋する者が承認するときみは思うだろうか。[・・・]ほんとうに恋している者が、三つの理由を挙げて証明したり弁護したりしようなどとけっして思いつくはずがないことくらい、わかりきったことではないか。なぜかといって、彼はすべての理由よりも、いかなる弁護よりも、より以上のものだからである。つまり、彼は恋しているのだからである。(191-192頁)

 くり返すが恋に落ちることをロマンチックな表象のなかで捉えることがここでの目的ではない。恋に落ちることがいくつかの理由に還元できないということは、逆からいうと、理由はあとからいくらでもついてくるということである。それとおなじで、生を否定することにもその理由はこと欠かない。しかしそのおなじ理由によって、ひとは有限な生のなかに繋ぎとめられ、みずからをそこから切り離すことができない。それは、生そのものが(少なくとも人間にとって)否定的なものだからである。ぼくはこの否定的無限を、悟性的に否定するのではなく、ジョークによって否定することを提案したのである。というか、ジョークが否定(規定)するものを真に受けるよう提案したのである。


 欲望は魂の墓碑銘である

 生の苦痛がどこまでも真剣なものであり、それと同時に笑うべきものであるのは、われわれ一人ひとりが「だれでもない」この非存在であり、またその視点から有限な生を眺めているからだ。それはすべての望ましいものの一般的な条件である。というのもそれは、人間の欲望を構成する不在だからである。この不在についてジョーク以外の仕方で語ることは、また別の機会に譲ることとしよう。ここで指摘しておきたいのは、この不在が同時に恐るべきものの接近でもあるということだ。リルケが歌っているように、美はこの不在を埋めにやってくるスクリーンのような具体的形象である。

ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使が
はるかの高みからそれを聞こうぞ? よし天使の列序につらなるひとりが
不意にわたしを抱きしめることがあろうとも、わたしはその
より烈しい存在に焼かれてほろびるであろう。なぜなら美は
恐るべきものの始めにほかならぬのだから。われわれが、かろうじてそれに耐え、
嘆賞の声をあげるのも、それは美がわれわれを微塵にくだくことを
とるに足らぬこととしているからだ。すべての天使はおそろしい。(リルケ『ドゥイノ悲歌』手塚富雄訳)

 人間の欲望──望ましさの条件──は、この恐るべきもの、すなわち魂の不死性の防波堤であり、その墓碑銘なのである。人間の欲望の最初のきらめきは、クローゼットの暗闇に隠れることで、両親が自分を探りあててくれることを待っている子供のように、みずからの不在を証言しようとすることであったかもしれない。ひとは他者から自分の非存在を探りあててほしいと望んでいる欲望の存在であると同時に、欲望のなかに消えていくこの不在の魂でもある。そしてひとはだれしも、他者の非存在を自分の不在に代えて探りあてたいと望んでいるのだ。これが、非存在の望ましさの正体である。

 もう一度くり返そう。生まれてこない方がよかった。

 でももう一度!

 アンコール!

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