無理数の発見されない世界は可能であったか(『存在論的、郵便的』)

こんな伝説がある。ピタゴラスは、世界が整数から構成されていると信じていたので、無理数の存在が発見されたとき、その発見者を殺してしまった。この話が示しているのは、ピタゴラスにとって数が知の対象ではなく信の対象であった、ということだ。トーマス・クーンが、近代科学の歴史はパラダイム転換の歴史であったと述べていることは、知識の発展にとって、知的枠組の例外となる要素の発見が、何より大切だということである。ピタゴラスは、この例外を、新しい知的地平を縫合するために用いることができなかった。クーンが述べているような動的発展を、古代の知的空間に投影することは控えるべきだが、整数で割り切れない無理数の存在を、ピタゴラスの後続者たちが彼にならって追放することはなかったという事実は少なくとも指摘できる。エウクレイデス以前に、すでにプラトンが、無理数の啓発的な活用法をおもいついていた。たとえば彼は『メノン』のなかで、奴隷に地面に図を書かせて、正方形の対角線が整数の値をもたないことに気づかせ、感覚にあたえられない(つまり個数ではない)数が存在すること、しかもその数を正確に把握できるということ、事前的な数学的知識がなくとも、それが教授できることなどを示し、そうした知識の未生的起源を論証しようとしたのだった。ここでおこっていることは、クーンが描く科学知の動的発展とは異なるとはいえ、もっと深いところで、おそらくは哲学史のようなものを規定してきた、知の地平を超えたものを再縫合しようとする、根強い欲動のたぶん最初の輝きのひとつである。

晩年のフッサールがとらわれた不安は、世界を偶然性へと解体していく科学技術の自律的なはたらきのなかで、西洋に固有のものをもしかしたらみいだすことができないのではないかということであった。一度縫合された知的地平は、それが開かれたままでもありえたのではないかという不安を、必然性の感覚とともにもたらす。それが西洋の合理主義的な知的世界とフッサールの目に映ったものである。けれどみわたすかぎりの知的地平のなかに、この閉域を保証するものは何もないし、反対に、近代科学は存在のすみずみにいたるまで、偶然性の感覚を導入することに成功してきたようにおもわれる。その帰結のひとつが、フッサールが生活世界と呼ぶ自明性の領界を耕し覆す科学技術のまったき支配である。科学が生活世界と存在を偶然化する、その否定できない傾向にあらがって、フッサールが考えようとしたのが、西洋の史的空間のなかで展開された、理念的なものの歴史である。フッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』のなかで、以下の問いを立てている。《ギリシア哲学の誕生とともにヨーロッパ人にとって固有なものとなった目標(テロス)[……]が、単に一個の歴史的現実としての妄想にすぎないのか、したがって多くのほかの人間性と歴史相のうちの、ただ一つの偶然的人間性を偶然的に獲得したものにすぎないのか、それとも、人間性そのもののうちにエンテレキーとして本質的に含まれていたものが、ギリシア的人間性においてはじめて実現するにいたったのではないのか》(細谷恒夫/木田元訳)。この問いにたいするフッサールの答えは、《哲学すなわち学問とは、人間性そのものに生得的で普遍的な理性が開示されてくる歴史的運動といってようであろう》という楽観的なものであった。このような史的展望のなかで現象学の使命となるのは、《一度直視した以上は意志が必当然的なものとして受けとらざるをえないような究極的な根源の真正さを示すものが何であるかを批判的に考慮すること》にほかならない。現象学は、理念の歴史的にして超越論的な単一性を反省するいとなみであることが期待されていたのである。

このような展望にたいする根底的な批判として、ジャック・デリダによるものが知られている。東浩紀の『郵便的、存在論的』は、その周到な解説と独自の解釈をふくんだ著作である。彼の様相論理的(可能世界論的)なデリダ解釈にならって、つぎの思考実験をしてみよう。ピタゴラスが彼の教団から無理数を追放したとき、そのあとでだれも無理数を発見することがなかったとしたら? 無理数の追放は完全なものとなったのだ。その世界を、SF作家が描くとしたら、たぶんディストピア的なものになることは想像にかたくない。なぜだろうか? それは、追放された無理数の方が世界に影を落とすはずだからである(これは権利上の議論ではなく、私たちの想像力が別の世界をもとめるときのはたらき方の問題である)。私が考えてみたいとおもっているのは、ジャック・デリダの有名なフッサール批判は、この無理数の追放が完全なものでありえた世界を肯定するだろうか、ということだ。

デリダのデビュー作は、フッサールが晩年に記した「幾何学の起源」への膨大な序文であった。フッサールはその論文のなかで、幾何学にかんして、事実上は発見され損なうこともありえた幾何学の定理が、その普遍性を否定しがたく、歴史の偶然性のうちに解消しがたい、そのプロセスの謎をとこうとしている。ところでこの不安は、おもうに文脈を移したらもっと容易に理解できるようになるものである。無理数の発見されなかった世界は、まだ私たちの想像力に耐えやすいかもしれない。けれど、重力定数の異なる宇宙、についてはどうだろうか。そのような宇宙では、私たちのような知的生命体は――というか端的に生命、それどころか惑星系――は存在できなかったであろう。このような想像力の飛躍は、自然科学が世界の偶然性を解き明かせば解き明かすほど、免れがたいものとして私たちに迫ってくるものである。というのも、世界がかくあることを知ることは、世界が別様でありうることを否定しない、というのが経験的な科学知一般の特徴だからである(世界の絶対的偶然性を肯定するメイヤスーの「思弁的実在論」の流行は、この不安がいまも哲学を動機づけるものであることを証言しているようにおもわれる)。高名な理論物理学者のスティーヴン・ワインバーグがいっているように、《宇宙が理解できるようにみえてくればくるほど、それはまた無意味なことに思えてくる》のである(『宇宙創成はじめの三分間』小尾信彌訳)。このような不安は、哲学的思考が超越論的なものの起源を求め、その起源の偶然性を否定したいという願望の根底にあるものとおなじだろう。フッサールにとって世界の合理化は、科学技術が日常の自明性を偶然化することと相まって、危機として眼前に迫ってきたのだった。

さてそのフッサールについてだが、超越論的なものの起源を求める彼の思考が、いかにその発見の必然性を擁護しようとしたのか、それを検討することはここではしない。重要なのは彼の思考に動機をあたえる不安がきわめて一般的なものとして解釈できること、またフッサールにたいするデリダの批判が、この哲学的不安にかんしてどんな余地を残すのかということである。東浩紀の解説によると、《前期デリダを特徴づけるエクリチュールおよびコミュニケーションの失敗可能性(引用可能性)のモチーフ》は、《超越論的歴史の単数性(univocité)を批判するため、言い換えれば超越論的歴史の複数性を思考するため導入されたものとして》考えることができるそうである。ここで、超越論的歴史の複数性とは何を意味しているだろうか? つまるところそれは、思考実験の域を超えて、わたしたちのこの世界について何を教えてくれるのだろうか? 東は以下のように説明する。

フッサールは「かも知れない」を排除した。歴史の推移がそのまま必然性と重ね合わさる彼の目的論(テレオロジー)においては、歴史的事件(例えば「三平方の定理」の発見)の様相性は決して問われることがないからだ。したがってその議論への批判は逆に、超越論的歴史の可能世界論、つまり、「三平方の定理が前六世紀にピタゴラスにより発見されなかったかも知れない」世界についての考察を求めることになる。(『存在論的、郵便的』)

わたしの思考実験ーーピタゴラス教団が「無理数の真理」を抑圧した世界は可能かーーはこの考察にもとづいている。ここでのポイントは、わたしたちの単一にみえるこの世界の方が、すでに可能世界的な亡霊にとり憑かれているという主張である。ちなみにこの発想は柄谷行人に由来するものであり、東のユニークなところは、デリダの難解な諸概念とわたしたちのSF的想像力を架橋する武器としたことだ。そこで問題は、こうしたデリダ‐SF的な世界像のなかで、ピタゴラスの無理数についての問いに、暫定的な答えをあたえるとしたらどうなるかということである。ありうる回答のひとつは、ピタゴラスが無理数の発見をしなかった世界は、わたしたち自身のこの世界がそなえている想像的属性にほかならない、というものだ。しかしそれは想像的なものでありながら、固有の現実性をもつのである。それが、東浩紀がデリダの「亡霊」という語彙にあたえた解釈である。

フッサールの超越論的歴史はたえずその起源へ遡行する(目的論(テレオロジー))。その遡行は伝承により保証される。しかし実際はその伝承はエクリチュールの介在で行われ、したがって起源への遡行はつねに失敗可能性に曝されている。そしてその失敗は理論的には、エクリチュールのもつ「引用可能性」、本来のコンテクストからの「断絶力」、つまりエクリチュールに宿る単独性=散種の存在により強いられている。裏返せば「散種」とは、超越論的歴史の純粋性と唯一性をたえず断絶させ複数化することで、そこに条件法過去、つまり「三平方の定理」がピタゴラスにより発見され、なかった世界の現実性を挿みこんでいく運動のことだと要約される。したがって私たちはここで、デリダのエクリチュール論をあらためて、可能性の現実性、あるいは偶然性の必然性、さらに言い換えれば、「かも知れない」の位相を排除することの不可能性について検討した基礎的議論として読むことができるだろう。(同前)

ここでさらに進んで、実在的に、無理数が抑圧された世界の歴史が存在するとして、その場合「無理数の真理」の行方がどうなるかを考えてみよう。この問いは、東自身が問おうとしていないものではあるが、この問題設定の意義は、ピタゴラスが無理数を排除した世界がわたしたちに望ましくおもわれないのとおなじ理由によってフッサールの西洋中心主義が動機づけられているという事実に目をむけることである。そしてわたしの考えでは、この問題にかんするデリダのアプローチは、東の解釈するそれと大分異なったものである。デリダが亡霊と呼ぶものは、事後的にみいだされる偶然的な可能世界とはちがって、規範的な重み(厳命)をおびたものであり、超越論的必然性とはちがった意味で、免れることのできない無条件性という性格をもっているからだ。ピタゴラスが無理数を抑圧することに成功した世界は、もし可能なら、無理数の真理という無名の亡霊に憑き纏われることにだろう。言葉を変えよう。デリダは断じて相対主義者ではないのではないか? 東の確率論的なデリダ解釈では、事後的にみいだされる可能世界に規範的な重みをつけることができないようにおもわれる。にもかかわらず、この世界はすでに他の世界の可能性という亡霊に憑き纏われているといわれる。それはいかにしてか。

東はアウシュヴィッツの「特異性」という例をあげている。アウシュヴィッツの固有名がひとびとに特異なものとして記憶されているのはなぜなのか? たとえばどこかでひと知れず死んでいった「このハンス少年」ではなく。

アウシュヴィッツについてのさまざまな記録を読めば分かるように、その選択はほとんど偶然で決まっていた。あるひとは生き残り、あるひとは生き残らなかった。ただそれだけであり、そこにはいかなる必然性もない。そこでは「あるひと」は固有名をもたない。真に恐ろしいのはこの偶然性、伝達経路の格率的性質ではないだろうか。ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかもしれないことこそが悲劇なのだ。(同前)

東にとって決定的なのは、「伝達経路の確率的性質」である。ところで世界がかくあることの理由は、決定的には確率論的なものではありえない。というのもこの世界がかくあることの確率は、つねに「一」であるということができるだろうから。別様でありうるのは世界のなかで知の対象になりうるものであり、真理それ自体の確率を問うことはできない。幾何学の定理にかんしてそれが発見されなかった場合を想像することの困難は、それが知の対象であると同時に(別様ではありえない)真理であるという印象から生じる。――これがフッサールの問題意識の根底にあるものであるとすると、東の導入する「伝達経路の確率的性質」という考えの含意することは一体なんなのか。それは、真理と情報(知)の次元の混同である。

ある固有名がそれであって他のものではない理由は、あきらかに偶然的(格率的)にあたえられていると考えるほかないし、固有名の伝達経路がこの世界の性質をかたちづくるものであると考えると、たしかにアウシュヴィッツがアウシュヴィッツとして記憶されている理由は、「伝達経路の確率的性質」に依存していることに疑いはない。この上なく単純な問題は、アウシュヴィッツが偶然の出来事ではなく(また無理数の発見と伝達も)あきらかにひとの意志が介在していたという異論の余地のない事実を、この論理が無視していることである。東の解釈では、伝達にかんしてひとびとの「真理への意志」は、ほとんどなんの役割もはたしていないようにみえる。それでは、事後的にみいだされる別様でありえた可能性が、わたしたちの現在に不安な影を落とすのはなぜなのだろうか? 架空のハンス少年のことをどこかおもわせる、プリーモ・レーヴィの報告している名前のないフルビネクのことを考えてみよう。

彼はアウシュヴィッツで生まれた子供で、言葉が話せなかった。外見は三歳くらいで、ときどき発する意味不明の言葉を聞きとった女たちのだれかが、彼をフルビネクと呼んだらしい。彼は痩せ細っており腰から下が麻痺していたが、レーヴィの伝えるところによると、その目にはひとを射る不思議な光が宿っていた。《その目は口がきけないという牢獄を打ち破り、意志を解き放ちたいという欲求をほとばしらせていた》(『休戦』竹山博英訳)。彼は言葉が話したかったのである。その痛々しい姿にまわりの者は耐えることができなかったが、へネクというハンガリー人の少年は例外だった。彼は辛抱強く毎日フルビネクの横に座り込んで、何かを話しかける。そして一週間もすると、フルビネクも少しずつ何かを発声しようとするようになった。

フルビネクは命のある限り、その実験をかたくなに続けた。翌日から、私たちは全員で、何とか聞き取ろうと、じっと耳を済ました。私たちの間には、ヨーロッパのあらゆる言葉をしゃべる代表がそろっていたのだが、フルビネクの言葉は分からなかった。いや、それはもちろん通報や啓示ではなかった。おそらく彼の名前だったのだろう。もしたまたま名前がつけられていたらの話なのだが。あるいは(これが私たちの仮説だったのだが)、「食べる」、もしくは「パン」を意味したのかもしれない。またボヘミア語の「肉」だったかもしれない。これはその言葉を知るものが非常に熱心に主張した説だった。
 フルビネクは三歳で、おそらくはアウシュヴィッツで生まれ、木を見たことがなかった。彼は息を引き取るまで、人間の世界への入場を果たそうと、大人のように戦った。彼は野蛮な力によってそこから放逐されていたのだ。フルビネクには名前がなかったが、その細い腕にはやはりアウシュヴィッツの入れ墨が刻印されていた。フルビネクは一九四五年三月初旬に死んだ。彼は開放されたが、救済はされなかった。彼に関しては何も残っていいない。彼の存在を証言するのは私のこの文章だけである。(『休戦』)

アウシュヴィッツが部分的にでも忘却を免れたとすれば、この出来事は忘却を免れなくてはならないと意図したひとたちがいたからであって、それはあきらかに格率論的な問題ではなかった。その意図にもかかわらず残されなかった証言があった(であろう)ことの確率的性質を強調することは、歴史修正主義と相対主義の危険をともなう。忘却を制約する規範的なもの性質は、アウシュヴィッツが忘却された世界を不可能にするのではなく、たんにおぞましくするのである。それは様相的思考ではとらえ損なってしまう真理の(必然的ではなく)無条件的な要請である。無理数が発見され、その伝達が保存されたのは、たんに伝達経路の確率的性質によるものとは、たぶんだれも主張しないだろうが、固有名の伝達経路の確率的性質におもいをよせるとき、おなじ不条理がはたらいているようにわたしにはおもえる。なぜわたしたちは、正方形の辺と対角線の比の値がまさに整数であるような世界に生きていないのか? これは、世界についての権利上の問いである。では、私たちが正方形の対角線の値が整数ではないような宇宙に生きていながら、確率的には、対角線の値が整数であると伝達されるような歴史も、(無限小に近いとしても)可能であったのか? 権利上はあきらかに可能であったろう。けれどその可能性の空想は、私たちがかくある世界に生きていることの確率論的側面を、どう考えても強調することはないはずだ。アウシュヴィッツを忘却した世界は、アウシュヴィッツの影を免れないだろう。それとおなじように、可能世界の空想は、私たちが生きている世界が依存している確率的経路ではなく、反対に、別様でありえたことの可能性を――忘却の影として――ずっと背負っているのではないかという問いへと、わたしたちが生きている現在を導くのである。わたしたちが固有名を知らない影たちは、すでに名前があたえられていたことになるだろう、そのような未来は、東がいうような《何が起こるかも知れないし、起こらないかも知れない、未来の絶対的偶然性》とおなじものではないはずである。

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