庵野監督の放浪癖は『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」にて収まったのか

これは『シン・エヴァンゲリオン劇場版:II』を観た当日、そのまま眠れずに考えた「シン・」の感想である。よってネタバレが間接的にであれ含まれることは避けられない。未視聴の方はブラウザバック推奨。劇場に行って、観て、映像を貪り、パンフを買って、情報を貪ることを推奨する。

それでは庵野監督の「放浪癖」についてだが、これは僕が個人的に思っていることに過ぎない。つまり何なのかというと、「庵野監督が作品を描き切るにあたって1つの確固たる結末を事前に持っているのではなく、状況に追い詰められてその時偶然に出した答えがそれだった、という感覚」がそれだ。

『新世紀エヴァンゲリオン』も『式日』も『シン・ゴジラ』も、そして『エヴァンゲリオン劇場版 序・破・Q』も、その終わり方が「たった一つの必然的な答え」だったとどうしても感じられないのだ。

もし作る時期が一ヶ月ずれていたら、もし庵野秀明の食うものが違っていたら、出勤中に鳥のフンを当てられていたら、結末は違ったのかもしれない。そう思わせられるような偶然性、悪くいえば強度の低さを、彼の描く結末には常々感じさせられていた。

有り得る結末が残像のように揺れて見える、これが庵野監督の放浪癖だ。これは別に悪いことではない。なぜなら彼の作品において重要なことは結末にではなく、そこに至るまでの過程に描かれていると感じるからだ。だからこそエヴァの世界は考察が膨れ、謎が謎を呼ぶ、本当の意味で完結しない世界を形作っているのだから。

しかし、この「結末の強度」に関して『エヴァⅡ』にはこれまでと一線を画すものがある。作品が提示した答えに一本の芯がしっかりと通っている。強度が高いと言ってもいい。そしてその結末は明らかにこれしか有りえない終わりを、そして始まりを示していた。その内容については詳述しない。

この結末の強度の高さが庵野秀明の作家性の変化なのか、あるいは『エヴァ』という作品内でのみ醸成され、結実した成長なのかは分かりかねる。この変化が良いことなのか、悪いことなのかも定かではない。だが少なくとも『エヴァ』はこの終わり方しかなかった、とハッキリ提示された気持ちの良さはあった。

庵野監督の放浪癖は少なくとも『エヴァⅡ』においては払拭されているように感じた。それが僕の感想であり、少し嬉しかった点だ。

25年間エヴァに取り憑かれ、放浪癖に付き合っていた亡霊諸君は『シン・ウルトラマン』が出るくらいまでは槍を納めて休めるのではないだろうか、そう願う

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