卯月コウの嫌いなところ

卯月コウが好きだ。言葉のバリエーションも、その言葉を紡ぐにあたって回転する感性も、バカ笑いも、同じネタを擦り続けるのも、誰も覚えていないネタを引っ張り出してくるところも。

だが雑談を聴いていると、どうしても嫌いなところが出てくる。それは彼の一部分というよりも、彼の根幹に根付いた一つの規範だ。卯月コウが純粋に好きだ、という人間はここで読むのをやめるのが賢明だと思う。その純粋な好意に自ら泥を投げるようなことをしないで済むなら、それが一番だから。

卯月コウのアンチの人間もまた読むのをやめた方がいい。根本的に私は卯月コウが好きだからだ。

読んで欲しいのは卯月コウが好きなのにも関わらず、彼の言動に何かが引っかかるような人間だ。その引っ掛かりがもし取れた時、卯月コウを好きでいるのか嫌いでいるのか、それがどちらなのかは保証できないが。


卯月コウは根本的に「男らしくあること」を諦めきれていない。自分は男らしくない、という自覚を持ちながらそれでも「男らしくあるべき」という誰にも強制されていないことを、自分自身に課している。

卯月コウは雑談でよくステレオタイプを笑う。「男らしいこと」の過剰を女性を殴ったり、威張り散らすヤンキーや陽キャに仮託する。「女らしいこと」の過剰を男性に媚びる女性に仮託し笑いへと変換する。

卯月コウはここで一見「男らしいこと」や「女らしいこと」を戯画化して否定する側に回っているように見える。

しかし、これは卯月コウが上のようなステレオタイプをただ「笑っている」にすぎず、馬鹿らしいものとして「笑い飛ばす」ことで完全に否定できているわけではないのだ。

なぜなら卯月コウは自分が「男らしく」あれないことを自覚しながらも「男はこうあるべき」という言説を雑談の節々に盛り込んでいるからだ。さっきまで笑っていた道化のような「過剰な男らしさ」をその舌の根も乾かぬうちに自分もそうあるべき、と話すのだ(それが不可能なことを誰よりも自分が一番知りながらだ)。

この自己矛盾が見ていてとても辛い。こういった卯月コウの自己矛盾は、男らしくなれない自分を完全には受け入れきれていない証左なのだ。男らしくない自分を受け入れられているのなら、ヤンキーや陽キャを笑い飛ばし、自分は全くの別物であると振る舞えばいいのに、話題は男らしさに戻っていってしまう。

だから卯月コウの雑談ではたびたび男らしさが過剰になった人々を一方では戯画化して否定的に笑い、同じ男らしさを自分にあるべき物だと肯定的に語る相反する振る舞いが見られるのだ。自己矛盾の塊であり、自己肯定と自己否定の相反する傾向がここには渦巻いている。

これが私の「卯月コウの嫌いなところ」であり、私が彼に対して憐憫を感じ、歪な愛らしさを感じる所以なのである。

自己矛盾を起こすコウに掛けたい言葉は、これもまたコウ自信が発した言葉だ。卯月コウが自分に課している男らしさなど「イデアや記号にすぎない」のだと。

そんな物はどこかの誰かが社会ぐるみで構築した使い古された理想でしかない。そんな面白みのない入れ物にスッポリ収まることが卯月コウの目指すところだというのなら、私はツマランと言ってただ離れるだけである。

だが卯月コウが古臭い理想である「男らしさ」にハマろうとしている一方で、そんなツマラン規範から一番かけ離れた活動が「おりコウ」にはあるではないか。

あの二人が「男らしい男と女らしい女」の普通の組み合わせに見えたことが果たしてあっただろうか?卯月コウと魔界ノりりむという個性的な個人が互いの個性を尊重し、認め合いながらマイクラを、Apexを、案件を駆け回る。ここに何のイデアがあっただろうか?(おりコウを本気で単なるカップリングと見る奴にはにわか乙と言っておく)

イデアにあてがわれることなどない個人と個人の交流があるのみである。それを卯月コウは時に忘れ、男らしさが行きすぎた人間を笑い、その後自分もそれが欲しかったのだ、などという苦痛しか生まないスパイラルを辿る。これもまた今の卯月コウだ。

最後に「男らしさ」などという社会的な構築物を屁とする川端だか島崎藤村だか、芥川龍之介だかが言っていたような気がするソースがふわふわした言葉で締める。「一個の存在として尊重する」。卯月コウが男らしいだとか、女らしいとかガタガタ言ってねえでありのままの自分を受け入れられることを願っています。

清濁合わせ飲み、ありのままを受け入れるという姿勢は卯月コウがインキャグランプリで俺たちに見せてくれた姿、そのものじゃないか

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