這いまわる経験主義ー悪くはないが、良くもないー

僕らの園は、といってもこの「僕ら」という主語は、自園だけではなく、自分たちを含めた今まで遊びや生活を大事にしてきた園であるのだが、ある種の大きな転換点を迎えている。

戦後、新教育運動に端を発すコアカリキュラムの意思をひきついだ久保田浩の哲学を基盤にし、80年代、90年代と、様々な園が自園の保育の質を追究していく。

しかし、ときは流れ、やがて形式だけが残るようになり、本質的な魂はどこかに追いやられる。そのことは、もうここでも何度も書いたが、端的に再度整理すると、その要因は二つ。

本質的な原理を引き継ぐのではなく、形式を引き継ぐことに専心してしまったこと。これは、戦前戦後の多くの教育論が、メソッドという方法論や形式にとってかわり衰退してしまった歴史と酷似している。

もう一つは、時代や情況に合わせて可変してこなかった、ことによる。現在、自明の通り時代が大きく変わろうとしているが、通常であれば時代というのはそう大きく変わるわけではない。しかし、情況というものは違う。そこにいる子ども、または働く保育者、そして保護者、ならびに地域など情況というのは刻一刻と変化するのである。

確かに、コロコロと方針が変わるのは問題であるが、それと同じように全く変わらないということも問題である。

言葉を変えれば、「変わらない」ということを敢えて選択しているのか、それとも「変わる」という意識すらなくそうなっているのか、この2点の違いは、自園の存続すらかかるほど大きな点である。

なぜ、そうなるのか。それは、今が時代の大きな転換点ということが見えづらい、からに限る。

産業革命しかり、農業革命しかり、または戦争しかり、目に見える形で大きな変化が現れた。今までなかった鉄道という高速で大容量を搭載できる塊が生まれ、あっという間に生活が変化した。

昨今も、震災しかり、コロナ然り、そしてAI、IOTなど目に見える形で、変化が起きている。そのことを、少し本やテレビを開けば、嫌というほど情報としては流れている。

しかし、AIの台頭といっても、現実にロボットが生活の中で家事をしてくれているわけでもないし、アレクサやSiriの存在も、大きく生活を変えたわけでもない。

インターネットにより、情報のアクセスは容易になった。道に迷わなくなり、初めての場所は国でも、目的地に行くことはできるようになる。

しかし、

便利になった程度であり、みんなの生活が大きく変化したとは言い難い。そのことは、その恩恵を受ける人が、限られている(多数ではあろうが)ことにもよるかもしれない。

這い回る経験主義とは、諸説あるだろうが、デューイの経験主義を批判した言葉である。デューイの経験主義は、日本においても多大な影響を与え、賛否両論はあるものの、否については、およそ上述したことと同じことが言える。

デューイの経験主義は、端的に言えば、経験したことを振り返りつつ学びにしていくことであり、経験というのはいわば方法であり、目的は子ども自身が学びを深め、広げていくことにある。

しかし、昨今のアクティブラーニングや生活科、総合学習では、経験することが目的化され鋳型にはめ込むような方法がとられている。

我々の保育は、悪くはない。しかし、良くもない。これは、ある時に偉い先生から指摘された言葉である。

そう、生活を大事にしているので、悪くはないのだ。しかし、毎年同じことを繰り返し、悪くはないけれども、同じ鋳型に嵌め込んでいる保育方法をとっていることをみると、良くはない。

生活科も総合学習も、ないよりはあったほうがいいだろう。でも、悪くはないが、良くもない、という段階だ。

さて、ここからどう脱却するのか、が問われる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?