対話することで保育の中の『偏り』と『癖』を自覚すること

久しぶりにブログを書いてみる。
自分の保育の備忘録を兼ねて。

1月のこうはんに入り、保育自体が、軌道に載ってきた。9月からの課題だった女児がようやくやりたい遊びに目がむき、一変した。

ずっとやり続けていたダンス。継続はしていたが、んーなんか遊びとしては、仕切る子が自分がしたい
ようにしていた感じでもある。

それが、ここにきて、相手に動きを任せたり、相手に委ねるようになってくる。

そんなダンスに、もともと興味を持っていた他の仲間も入るようになる。
たぶん、ずっと以前から興味を持っていたのに入れない。
やりたいのに入らない。

慎重さは、時として自分のやりたい思いにフタをしてしまう。
なんとか、その蓋を開けようと試みるが、なかなかうまくいかない。

そんなことを半年以上も担任としては試行錯誤していた。

そんなある日の1月。

いつもは感情を露わにしない女児が泣き、怒っている。
何をしても感情が収まらない。

保育室から離れて、感情を収めようと図書室に移動する。

30分経過しても、収まらない。

そこで、趣向を変えて、遊びに誘ってみる。

彼女が最近よくやっていたフラダンスに誘うと、その子の動きが一瞬止まる。
響いたらしい。

長時間泣いている時は、もう泣いている理由なんてどこかに吹っ飛んでいて、
泣き止むきっかけが欲しい時もある。

その子のことを気にして近くまできていた数人の女の子にフラダンスをやらないかと声を
かける。

偶然にも、その子たちは、興味はあるのに入らなかった子たちだ。

すると、一回ならやると言う。内心、ホッとする。これが、その子たちの遊びにも繋がればいいなと
頭の中のコンピューターが一気に回転する。遊びの算段をし始める。

泣いていた子は、遊びがきっかけになり、気持ちがおさまりつつあった。

図書室で、ダンスがはじまる。やってみたかったわけだから、当然、楽しい。だから一回で終わる
はずもなく、その日の午後も、翌日も継続していく。

その子たちにとっては、やっと、やっとやりたいことができたわけだ。

嬉しい。

半年以上、試行錯誤を繰り返して、どうしたらその子たちが遊びに没頭できるのか考えていた
わけだから当然、無類の嬉しさを感じる。

一方で、特に3学期が始まって、悩みがマックスになっていたこの1月。
悩んで、いろんな方法を考えるわけだが、そこで分かったこともある。

どうしても俺は、「まとめ癖」があるらしい。
自分の中に、どうしても劇をやらせたい自分がいる。
一つの活動に落とし込みたい自分がいる。

以前は、この時期は、前年踏襲で「劇」をやっていた。
多くの園で、この時期「発表会」という名目で、劇をするところは、ほとんどではないか。

クラスの全員で劇をする。

年長だからクラス全員で同じことをして、同じ目標を持つことが大事。

協力?
団結?

聞こえはいい。

そもそも、20人から30人全員で劇をするということ自体に無理がある。
大人でも無理だ。

その中のほんの数人は劇が好きな子がいて、大人が何をして欲しいのかを敏感に察知する子がいて、成り立っているように見えるが、半数以上は受け身である。

まあ、それはそれとして・・・

今の子どもにはない物を持ち込むのではなく、「いまあるもの」に目を向けないといけないが
ねらいや目標というバイアスがかかることで、目の前のものが見えなくなっている。

うん。分かってはいるが。

あと、もう一つ自分を見えなくするものは、「見せる」ということ。

これ。

これが、きつい。

親に見せる、というバイアスがもっとも教育に良くない。
見栄えじゃないと言っているのに、やっぱり見栄えが気になってしまうので。

もうやんなくていいよ、ってだれか言ってくれたらこんなに楽なことはない。

言いたいことは何か。

悩んだ末に、自分自身の思考の癖に辿り着く。
それは、良い悪いではなく、癖を知ることが大きな財産にもなる。

否定したって仕方ない。

だって自分の思考だから。

でも、どっかで「偏ってない?」って言ってもらえることが大事。

今回は、同僚と対話することで、その偏りと癖が見えてきた。

つまるところ、誰かに話を聞いてもらうのが一番早い。

美智子と今日も簡易WEBを作った。男児の方向性も見えてきた。
ありがとう。

対話って大事。

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