行事という名の前年踏襲と若手の未来と

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園の行事。

4月から数えて、始業式、こいのぼり、お店屋活動、七夕、遠足、運動会、作品展、劇、節分・・・一体いくつあるのだろうか。

行事がない園というのは、日本ではほとんどないだろう。それくらい、幼稚園(保育園、こども園)は行事が多い。

ちなみに、欧米などでは、行事などはほとんどない。これは、文化が影響しているので簡単に比較はできない。

行事そのものが悪いわけではない。

というより、なんで行事がこんなに多いのだろうか。

子どもに季節を感じてもらう。
日本の伝統文化を知ってもらう。

列挙すれば、美辞麗句は出てくるだろう。

しかし、内実は違う。


本当に、その保育者がやりたくてやっている文化なのだろうか。
本当に、あなたが、目の前の子どもに知らせたくて、体験させたくてやっていることだろうか。

多くは、違うだろう。

園の文化だから
もともとあったから
そういうものだから

先輩たちから受けた継いだ「なぜそれをするのか」の受け売りを、さも自分の言葉のように
話す人もいる(かつて、自分がそうだった)。

それは、その先輩たちが(たぶん)本当に子どもたちのことをかんがえて、その時代、ぞの子に
必要な体験だから考えたことである。

10年経過して、本当にその行事・文化が必要なのか、どこかで立ち止まって考える必要がある。


ちょっと話を戻す。

行事はわるいわけではない。

じゃあ、何が問題なのか。

前年踏襲だからです。

これです。

極端に言えば、これしかないです。

10月は運動会。これ、なんでですか?
これに明確な理由で、自分の言葉で話せる人います?

答えは、いつもこの時期に、この行事をやるから、です。

どんな屁理屈こねても、前年踏襲です。

前年踏襲になると、考えません。

思考が麻痺します。

何をするのか、目の前の子どもに何が必要かを考える必要がなくなります。

だって、同じことをすればいいんだもの。

目の前の子どもを理解しようとするより、いつもやっているプロフラムを
子どもに指導すればいい。

100歩譲って、その行事は、子どもの成長に意味があるとする。
長年の積み重ねから、その行事は子どもの学びにコミットすることが
分かっている。

で?

そのパッケージングされたカリキュラムを子どもに「当てはめる」。

子どもは、大人が何を望んでいるのか一生懸命、探ろうとします。
一生懸命、大人の要求に応えようとします。

今の言葉で言えば、「忖度」します。

それが、果たして本当の子どもの学びなのか。
果たして、子どもは幸せなのか。

違う角度から。

保育者が疲弊してるぜ。

「ねばらない」が横行して、幅をきかせて、プログラムを上手にこなせる大人が
残っていく。

子どもを見ないで、行事というプログラムを上手に子どもに「調教」していく
大人だけが残っていく。そして、面の皮が厚くなり、間違った持論を展開していく。

「子どもは、大人が指導しないと違う方向に言ってしまう」
「小学校行ったら、困るでしょ」

と、言う。


いやいやいや、違うでしょ。

未来ある若い保育者の光をどうか摘まないでほしい。

違和感を覚える保育者が、その場に何とか適応しようと「違和感」を
感情の奥底に仕舞い込み、疲弊している。


若手こそ未来。


前年踏襲を打破していくには、若い人たちの「違和感」という名の武器が
不可欠である。

さあ、未来に向けて語り合おう。

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