調理体験と試行錯誤クッキング

2020-02-03 21:17:26

テーマ:保育・教育


今日、園で味噌ラーメンのスープの試作品を作った。
作ったのは、クラス内での8人ほど。

事前に自分たちで調べてきたレシピを参考にする。

1回めは、塩を入れすぎてしょっぱいスープに。

2回めは、失敗を振り返り、塩を少なめ、そして(なぜか)味噌を多めに入れる。

意外に優しい味のスープになり、これならいける(ラーメン作りができる)!という
確信を得たようだ。

ちなみに、味噌は6月に保護者に毎年作っている人がいたことで、
園に招き教えた頂き作った、自家製味噌である(めっちゃ旨い)。

多くの園では、「食育」よろしく、なんらかの調理をすることは多いだろう。
息子(年少)が通う園でも、かなりの頻度で調理がおこなわれ、息子自身
楽しみにしている。

ここから、一歩踏み込みたい。

年少であるならば、初めてのクラスの仲間との調理。たとえば、切るだけで
あってもその経験は貴重なものになるだろう。

年中や年長になっていくと、自分の好み(=興味)がはっきりしてくる。
作りたい場合もあるが、その逆もある。さらに、幼稚園のケースを見ていくと
年少ではクラス人数が少ないが、年中以上に進級すると、その数が多くなることが
少なくなり。

すると、どうなるか。年少の頃は、食材を切るという「部分」を担うにしても
クラス内の人数が少ないため、保育者はゆったり関わることが可能である。

しかし、クラス内の人数が増えるにしたがって、大人の人数が確保できないときには
ほぼ例外なく、子どもを待たせたり、 流れ作業になってしまう可能性が高くなって
しまう。


調理を体験する、というのは、初めて調理を体験するということでは有益ではあるが
その体験を何度もしていくことで、それが当たり前になる。

学年があがるに従って、または調理体験を積み重ねるに従って、「部分」ではなく
「全体」を経験していく必要が生じていく。

つまり、調理工程の一部分だけではなく、全てを担えるような仕組みが必要に
なってくる。

そのさい、問われてくるのは、なんでそれをするのかという本質的な問いに
なってくる。

なんで、カレー作るの?
なにを経験させたいの?


ただ、カレーを作るくらいなら、家庭で当たり前のようにやっている可能性もある。

みんなで作るという経験をさせたい、という声が聞こえてきそうだが、
そんな経験はとうにしている。

実際のところ、危険なところは子どもに任せられず、大人の予測と計画の枠の中で
さも“子どもがやった”というように見せ、『みんなで作る経験をした』という
大人の都合のよい「ねらい」を達成しているに過ぎないようにみえる。

私は、この『体験調整』がものすごく嫌いである。

悪しき保育文化の中で一位、二位に入るほど、嫌いである。

多くの場合、クラス全員が取り組む必要があり、食べたい食べたくないという
好みは度外視される。

結局の所、こういった方法では、なにも残らない。
美味しい何かを食べたという経験は残る。

それしかない。いや、それも大事なことだが。

食べることが楽しくなる経験にもつながるので。

違う視点でみていくと、その経験から、なにを子どもが学んだのかということは、
どうだろうか。

食べることが楽しくなる。
作ることも楽しくなる。

ぞの次、だ。

つまり、学年が上がり、成長していくにつれ、「部分」から「全体」へという
プロセスの広がりがあまりにもなさすぎるのである。


繰り返しになるが、調理のための「部分体験」から、次のステップに踏み込む
文化があまりにも少なすぎるのである。


そんな思いもあり、数年前から例年(なんとなく継続していた)焼き芋は
廃止した。

なので、今回の味噌ラーメン作りでも、作りたいやつが作る。
作りたいやつが、作り方を調べてくる。

そして、基本、安全面以外は、口を出さない。
塩を、あんなに入れようとしても、口を出さない。

実際にやってみて、しょっぱくて、なにが悪かったのか考えてほしい。
いや、むしろ、まずいラーメンができても得るものがあるのではないか

つまるところ、自分で作ったぜぃという「満足感」と、それに伴う「主体性」そして、こうしたらどうなる?をなん度も繰り返していく「試行錯誤」である。


ああだの、こうだの言いながら、仲間と試行錯誤していく。

「体験調理」ではなく、まさに、これこそが家庭ではできない、「試行錯誤調理」である。

ただし、安全面・衛生面の徹底は言わずもがな。


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