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2023.9.8 - 9.14:これからやっていくこと

この一週間はなんにも書かないまま過ぎ去ってしまったので、今の所感を書いておく。
東京には6月13日あたりにやってきたので、ちょうど三ヶ月が立ったことになる。この三ヶ月は体感がとっても長かったし、とっても暑かった。それにしてはよくがんばったほうだとけっこう思う。体調もけっこう崩していたし、できなかったことももちろんたくさんあったけれど。

明日(16日)は友人の結婚式があり、この一週間は準備に追われていた。ほかの原稿や入稿関係にも追われていた。とにかくどっしりといないといけないというのが最近の思うことであり、けれど、そんなことは一生できる気がしないとも同時に思う。一生できる気はしないけれど今の自分に必要なことがたくさんあるので、この道に向いていないのではないか、とたびたび思う。が、そう思うたびに「向いていない」といったときにわたしを叱った人のことを思い出し、口には出さないようにしている。その人は「傷ついた」といって、わたしはその人を今でも傷つけたくはないのだ。

それから、最近改めて気づいたものとして、宛先が明確なものは迷わずに作れるし楽しい、ということがある。これは前にも思ったことがあったが、最近は、結婚式に向けて準備するなかでとくに感じた。迷わないことが楽しいのではなく、宛先が決まっていることで楽しくなってくる。「この人が喜ぶ」「この人に見せたい」とわかっているほうが、うれしさを感じやすい。そう単純な話である気も、それ以上な気もする。
仕事では制作物の宛先が、良くも悪くも不明瞭だ。それだけひらいていると言える。その「ひらかれた状態」が必要だと思うから、わたしは今この場所にいる。これが楽しくないというわけではない。が、誰に向けたらいいのかわからない(ままで、わたしが行なう)編集・文章は、ブレやすい(決まりにくい)とは思う。技量でまかなえる部分はあるし、この分析がまだ甘いとは思うので、がんばる余地がある。ひきつづきやっていく。「宛先が明瞭のままでひらくこと」を、歩では検証したいと思っているのだと思う(歩:2022年2月からやっている紙媒体のシリーズの名称)。

文章に関して最近思うのは、わたしは「かもしれない」で、かなり逃げているところがある、ということ。断言するのはやりたくない。本当にそうかどうか、わからないことを断定したくない。可能性、想像の余地は残しておきたい。そう思うとき、わたしは「かもしれない」とか、「だろう」と書いてきたけれど、それはその場しのぎのごまかしのようなものだったのではないか。単純に密度を薄めるだけだったような気もする。密度のなかにあって、想像できる、だれかを止めない言葉がたぶんあるんだと、上司をみていると、思う。そういう文章を上司のもとにいるうちに学びとりたいと思っている。

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