旧稿再掲 プーランク『カルメル会修道女の対話』をめぐって

アクティヴィティログを検索しても、『カルメル修道会女の対話』について書いた文章が出て来ないなあ、と思っていたら、何とMixiに書いていたことが分かった。二つ文章を書いているので、まとめて再掲しておきます。

験される祈り―プーランク『カルメル会修道女の対話』2010年08月30日05:53

今年のひろしまオペラルネッサンスは、近年再評価されつつあるプーランクの『カルメル会修道女の対話』、おぢさんは広島市文化財団の雑誌に文章を書くように頼まれ(500字、というのが辛い)、28日に招待券で非常に良い席で観させてもらい(きちんと座席指定されていた、某新聞社も見習って欲しい)、29日は自腹でちょっと安い席に座ったのだけど、窓口にいたのが元教え子さんであったおかげで一割引してもらい(プロのフリーター教師の役得である)、この傑作を二日に渡って味わうことができた。

プーランクという作曲家は、いろいろな分野の作品があるけれど、20世紀の作曲家には珍しく『スターバト・マーテル』『グローリア』といった伝統的な宗教合唱曲を多く書いている。室内楽作品など、音大の学生の課題に丁度良いのか、案外聴くことが多いけれど、プーランクにはこういう宗教的声楽曲に力作が多いのではなかろうか。

小節の頭が明確な、明快で率直な書法でありながら、陰影に富んだ音楽という印象がある。この『カルメル会修道女の対話』は、そうしたプーランクの畢生の大作というべきかも知れない。

『カルメル会修道女の対話』は、簡単に言えば、フランス革命の前夜、侯爵の娘ブランシュが社会の騒擾と実家の息苦しさから逃れるようにして入ったカルメル修道会の修道女たちが、革命政府の恐怖政治への転換とともに死刑を宣告され、一度は修道会から遁走したブランシュもまた、修道女たちとともにギロチン台の露に消える、という話である。

ブランシュの人物造型も屈曲に満ちているが、カルメル会修道女たちも一枚岩ではなく、死の苦痛に耐えかね「神を呪う」言葉を吐くド・クロワッシー修道院長、「原理主義」的傾向の強いメール・マリー副修道院長(マイミクKakkieさんによれば貴族出身とのこと)、ブランシュの親友となる人の良い?コンスタンス修道女(同じく地方貴族出身とのこと)、革命政府と交渉してカルメル会そのものも修道女たちも守ろうとする新修道院長リトワーヌ(同じく市民出身とのこと)、さらには妹ブランシュにほとんど近親相姦的な愛情を注ぐ兄ド・フォルス、等々と人物が立体的に配置され、「神なき時代」の信仰(祈り)を験す 内容となっている。

まず印象的なのが、ブランシュを修道会に受け容れるにあたって「神はあなたの強さではなく弱さを験すのだ」と厳しい言葉をかけ、祈りを軽蔑する人々に対して祈りを擁護するド・クロワッシー修道院長が、死に臨んで苦痛に耐えかね「神を呪う」言葉を吐き、修道女たちが動揺する第一幕の終わりである。ここでは言うなれば「内側からの祈りの不可能性」が描かれている。

第二幕では、革命政府が成立してカルメル修道会の解体が決定されるが、この迫害に対して殉教を説くメール・マリーを、リトワーヌ新修道院長が殉教は目的ではなく祈りの報い(結果)だと戒め、私のようなキリスト教をよく知らない人間に、なるほど祈りというものはどこまでも神との関係のあり方なのね、という基本を教えてくれるのはありがたい。その祈りを貫くことで殉教という結果に至るのは人間たちの側の都合なのである。

ということで、第三幕の冒頭で、リトワーヌ新修道院長がパリの革命政府との交渉に行って不在のおりに、「原理主義者」メール・マリーは修道女たちに「全員一致の殉教の誓い」を要求するのだが、「命をかけるからと言って思い上がるな」と、神に祈ることの原則を確認する。この要求は思いがけず全員一致で通ってしまうのだが、この結果を見てブランシュは遁走してしまう。この後、革命政府はカルメル会修道女たちに、一転して、反革命的な秘密会議(要はミサなのだが)を開催しようとした「陰謀」の罪で、全員死刑を宣告する。つまり、信仰を貫いた殉教の死ではなく、反革命的な陰謀を図った罪人としての処刑死を与えるわけである。これは言うなれば、「外側からの祈りの不可能性」だ。

祈りは祈りとみなされず、反革命的な謀議としか受け取られないのである。

聖歌を歌う修道女たちの歌声が、ギロチンの落ちる音によって一人ずつ不規則に断ち切られていくラストは、音楽劇しか持ちえない強烈な表現となる。聖歌を歌うのが、いよいよコンスタンス一人になったときに、「小さな奇蹟」が起きる。遁走していたブランシュが刑場に現れるのだ。断ち切られた歌を、ブランシュは一人歌い継ぎ、その歌声もほんの数小節で断ち切られる。音楽はそのまま静かに流れ、溜息をつくような小さな和音で全曲が閉じられる。この和音に、神の不在を感じる聞き手は私一人ではあるまい。

このオペラでは、祈りを擁護する修道院長が、肉体の苦痛に耐えかねて神を呪い、修道女たちは殉教すら許されず、たんなる反革命の罪人として 処刑される。修道女たちが祈りを捧げる相手である神は最後まで沈黙をし続ける。神はいない、それでもなお祈るのか?とこのオペラは問いかける。台本を書いたベルナノス、作曲したプーランクの答えは、「もちろんだ、ありとあらゆるものから逃れ続けてきたブランシュも、最後には自ら刑場に赴き、ほんの数小節でも聖歌を歌い継いだではないか」というものだ。たったそれだけのことでも意味があると考えるかどうか、このオペラの観客には問われている。この問いは、「現実主義者」から軽蔑され嘲笑されながら、戦争のない世界を祈念する者すべてに問われてもいるだろう。

プーランク『カルメル会修道女の対話』その22010年09月12日13:40

先月末にひろしまオペラルネッサンスでプーランクの『カルメル会修道女の対話』を観て以来、ちょっとはまってしまっている。

現代音楽好きなのにLP派、という始末に負えないひねくれ屋のおぢさんだから、早速eBayオークションを漁ってLPを見つけ、注文していたのが届いた。

このオペラのフランス初演のメンバーによるセッション録音で、どうやらLPはこの録音しかないようだ。1957年のモノラル録音。おぢさんが入手したのは米国仕様のAngelレコードの製品だが、ありがたいことにレコード本体はイギリス・プレス。それまでのSPレコードに代わるLPレコードを開発したのは米Columbiaレコードなのだが、当時レコードのプレスの最先端を行っていたのはイギリスで、この頃の英国プレスのLPは信じられないくらい音が良い。このレコードも、痺れ返るほど良い音が聞けた。

あらためてレコードで音楽だけ聞いてみると、ひろしまオペラルネッサンスの公演では、場面転換の間奏曲がけっこうカットされていたことが分かる。広島で『カルメル会修道女の対話』が舞台にかかる、ということは、多分おぢさんが生きている間には(死んだ後も?)二度とないだろうから、ここはできるだけ全曲弾いて欲しかったと思う。で、ピエール・デルヴォー指揮のパリ・オペラ座管弦楽団の演奏で聞いてみると、先の公演での広響の演奏にはかなり問題があることがあらためて感じられた。公演でも管の音程にかなり疑問が感じられたのだが、レコードを聞くと「ああ、バッチリ決まるとこんな音楽になるのね」とよくわかった。

さすがフランス初演のメンバーだけあって歌手陣もやはり素晴らしい。フランス語などほとんどできないおぢさんでも、歌詞が実によく聞き取れる。レコードの録音が優秀なこともあるが、大編成の管弦楽を使いながら、「歌」の部分ではむしろ室内楽的な音楽を書いているプーランクが、歌詞をしっかり聞き取らせようとしている面もあるように思う。

レコードではフランス語の美しさをしっかり堪能させてもらったが、ひろしまオペラルネッサンスの公演を振りかってみると、問題の多い管弦楽に比べ、声楽陣は多少のでこぼこはあれど大健闘の部類ではなかったろうか。

ラストの、聖歌を歌う修道女たちが一人一人ギロチンにかけられ、聖歌が断ち切られる場面は、音楽だけ聞いてもやはり凄かった。さすがにギロチンの本場だけあって、ギロチンの落ちる音は異常なほど生々しく響く。たんにギロチンが落ちるだけじゃなくて、「何かが切れている」音までする。肝を潰すような音だった。もしかして、本物のギロチンを使ったんじゃなかろうか。

いずれにしても、ひろしまオペラルネッサンスの公演がなければ、この曲をここまで聴きこむこともなかったろう。良い機会を与えてもらい、心から感謝している。

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