乱文を連ねる話

乱離骨灰なこんばんは。おだンゴです。
今日は特に大会とかはないし、実は大喜利始めてから珍しく生大喜利に参加していない日が数日続いたので、たまには暇つぶしで文字を書いてみようかな~と思って筆を執った次第です。
そのためいつもと違ってかなり見づらく、書きたいことを書いているだけですし、人によっては多分不快に思われる方もいらっしゃるのではないかと思います。
その点あらかじめご承知おきの上、興味のある方がいらっしゃれば是非お手すきの際にお読みいただければ幸いです。
(今後も時間があるとき、少しずつ更新しようかなと思います)


noteの話

ありがたいことに大会や大喜利会の振り返りをまとめたnoteを読んでいただける機会が増えており、初めてお会いする方にも「note書いている方ですよね」とお声掛けいただいたり、仲良くさせていただいている方にも「おだンゴさんが来るのが嬉しい」と仰っていただいております。
こうした声は自身のモチベーションの一助にもなり、大変ありがたいです。

しかし、その一方で、こうした声を耳にするようになりました。

「おだンゴさんがいるから、しがみはしなくて良いかな
「おだンゴさんがメモ取ってるの見て、自分はメモ取るのやめてしまった

これは大変私の不徳の致すところであり、非常に申し訳ない事態だと思っています。なぜなら、私がその場に存在することで本来あったはずの交流を奪っている、ということになるからです。

そもそも私のnoteは、よくポストする際にも気を付けているのですが「振り返り」がメインです。しがみではありません。
また、私が「今日はnoteを書こうかな」と決意するには、いくつか条件があります。

・最初から最後まで参加していること
・平日の仕事上がりではないこと
・少人数、車座形式などの「自分が回答しつつ人の回答を覚えなければならない機会」がゼロ、または少ないこと
・若干でも構わないので「勝負」の概念が存在すること

他にもいくつかありますがざっとこんな感じです。
とはいえ基本的には気まぐれで行っているため、今までこうした思いを明文化しておらず、聞かれた際に「今日は書かないですよ~」と言うに留めていました。(そのため、書かなかったもの全てが上記に当てはまるわけではありませんし、上記に当てはまっても書く場合は生じるかもしれません)

noteは振り返りがメインと言いつつしがみを入れているのは、私が様々な方にしがんでいただいた際に非常に嬉しかったのが大きいです。特にベテランの方からお褒めいただいたものについては、たまに見返しては心の拠り所にしています。もちろん歴の近い方々のものも、言及していただいていることが嬉しくて会ったときにお礼を伝えたり…ということも何度もありました。

私がいることでこうしたしがみが減る、交流が途絶えてしまう、というのは、ある種「邪魔」と捉えられてもしょうがないことだと思います。私の視点にない面白さ、というのも勿論あるし、私のようなまだまだ歴が浅いたった1人が褒めるだけではなく、より多くの方に認められる機会を潰してしまっていたかもしれない、と思うと非常に申し訳なく思います。
上記の発言をされた方々を責める意図はなく、皆がそういう心を片隅にでも持ってしまう限り、私のnoteの書き方は見直さなければならないかな、と思っています。

実は、最近noteを数日空けて出すようにしていたのはこれらが要因となっています。今までは当日中に早くこの面白さを伝えなければ!という妙な正義感に駆られて仕上げていたのですが、こうしたことで明らかに他の方のしがみする欲求を減衰していた(どうせすぐにnote上がるから良いか…となっていた)と推察したためです。効果があったかはいまいち不明ですが、今後も基本的には1~2日程度は空ける予定となっています。
それでも効果が表れない場合は、たとえば振り返りは振り返りだけ、ツボ上げはツボ上げだけでまとめるなど、構成を見直すつもりです。


言語化の話

noteを書いている理由はただ一つ、面白さを「言語化」したいからです。
これは私のスタイルというか、一つの目標でもあります。

少し自分の話をします。

私は大学生の頃、文芸サークルに所属していました。要は小説を書くサークルです。本を読むのは好きでしたが別に小説家になりたかったわけでもなく、それまで一切創作活動をしていなかったのですが、大学生になって何か新しいことをしよう、と思って始めた次第です。

いきなり「小説を書こう」と言われて何をしたら良いのか分からない私は、とにかくサークルの先輩に「小説の書き方」について尋ねました。プロット(起承転結の構成)やキャラクターの性格の作り方、世界観を崩さないようにする方法…など、初心者が知っている数少ない知識から、どうにか身に着けたいものをまとめて先輩方にぶつけました。
そうして得られた回答は、以下の通りでした。

頭の中にキャラクターがいて、それが物語を紡ぐから、私(俺)はそれを文字に起こすだけ

何を言っているのかまるで分かりませんでした。今でも完全に納得しているわけではありません。
要は「天才肌」とか「芸術肌」と呼ばれる、才能がある故に他人には上手く説明できない、そうした概念の話だったと思います。
しかし、ここは文芸サークル。言語を駆使して他人へ何かを訴える場です。
そうした集団が、書き方の一つも説明できなくてどうするんだ、と私は怒りを覚えました。何より許せなかったのが、そうした雰囲気を是として(驚くべきことに、このような発言を平気でするメンバーがサークルの半分以上を占めていました)、新参を排除していることに全く気付いていないことです。

少し状況は違いますが、私は大喜利も似たようなことがあるのかな、と思っています。

面白さにもいろいろなものがありますが、基本的に与えられたお題に対して適切な回答を行うのが大喜利だと私は理解しています。
この「適切な回答」の中に、たとえばお題に対して沿っている、ひょうきんな言い回しをしている、情景を分かりやすく絵でまとめている…など、様々な要素が複雑に絡み合っており、一概に説明は出来ません。

この「面白さを説明することは難しい」というのと、「面白さを説明なんてできない」というのが、どうにも混在しているように思うのです。
それどころか、「面白さを説明すると冷める」という考えさえ持たれているように感じます。(大きな声で否定はできませんが…)

いろんな方がいろんなスタイルを持っており、それについて頭ごなしに否定するなんて言うのは愚の骨頂です。しかし、少なくとも言語化という行為によって成長している実感がある自分にとって、「言語化は一切せず、その日の調子次第でウケなくて落ち込んだり、ウケて喜んだりする」というのは、言葉を選ばずに言うと同じ所で立ち止まっているように思うのです。


構造の話

私は「作戦会議大喜利」というコンテンツが大好きです。
作戦会議大喜利は苦手なお題に対して最初に回答、その後グループに分かれて話し合い、最後にまた回答するという形式のものです。要は皆でお題について話し合う機会を設けられたものですね。
これを聞くことで、普段強い回答を作っている方がどのような思考プロセスで答えを導いているのかが追えて、非常に勉強になります。

一方で、お題や回答の構造ではなく、ウケる要素の話に終始してしまっているときが度々あり、そうなると確かにその場では役に立ちますし、同じ要素が使われている別のお題でも役に立ちますが、その一方で同じ構造のお題では役に立ちません。
例えば「身の回りの物が全てお菓子になった世界でありそうなこと」というお題があったとして、そういったお題が苦手な方が本当に知りたいのは、お菓子のあるあるではなく世界お題の向き合い方だと思います。

構造を考える、それを言語化する。今はとにかくこれをしている時間となっています。全員が全員これをしろなんていうのは思っていません(これ以上強くなられても困る!)が、自分でも何で面白いのか分からない、みたいな発言を聞いていると、ちょっとだけ寂しくなってしまいます。