2.ワールドアパート

この歌が嫌いだった。革命という語が使われているからだ。ビルに刺さるのだから、9.11を取り上げているのだろう。革命という強い語を使うのに釣り合う重い事件である。しかし。

Aメロ前半は、情報化、加速する社会を歌い、後半は自分の体からそれらが乖離して行くさまを歌う。「ぼくの両手にはこれだけだよ」。ヒューマンスケールを超えるあれこれ(携帯電話によって、深夜のクライアントからの連絡にも応答しなくちゃいけなくなったとか、そういうことも含まれるだろう)への警鐘にも聞こえるし、もはや太刀打ちできない無力感にも聞こえる。あくまで革命は「心の中」にとどまるのだ。

そこで、イメージだ。後藤さんは想像力、イマジンの重要性を繰り返し訴えている通りだ。遠くのテロも日本の一人暮らしの自分には関係がない。しかし麻痺したままではいけないと考えたのだろう。作中主体は痛みを想像して「わかる」。しかしわかるためには目を塞いで、この現実から自分を遮断して、意識だけ現場に飛ばさねばならない。

革命とはなんなのだろう。辞書の定義を総合すると、急激かつ根本的な変化が社会構造などステディなものに深刻な影響をもたらすこと、とでも言えよう。前述の通り、大事件にかかわらず、六畳のアパートにとどまるかぎりは作中主体は平和な暮らしを送ることができる。主体の周辺の現実に革命は起きていない。そのズレに対する危機感、手元を離れたものに対する恐怖が想像へと向かわせたと推測される。しかしその想像も自分の手元の現実=君にとどまる。

両手に載せきれない世界の拡張と加速は実際のことであり、自分の無力感も本当であり、想像力さえ自分の周辺しか飛べないのも事実であることを「わかった」うえで、そうした遥かなものに対峙した時でさえ、なんとか実感を持って関係していこう、そっぽ向いているのはもうクールではない、そうした大きな諦めと小さな決意の歌なのか。

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